【独自に映画づくりを学んだスペイン映画界のアナーキーな巨匠】スペインのラ・マンチャ地方出身。8歳の時に家族とともにスペイン西部に移住し、高校までをそこで過ごす。大学入学資格試験に合格し、1968年にマドリードへ上京。しかしフランコ政権によって映画学校が廃止され、進学を断念、スペイン国立電話会社に就職する。仕事のかたわらシネマテークに通い、読書、パンク・バンド活動に明け暮れ、自主映画を作りはじめる。上映会などで次第に評判となり、劇団ロス・ゴリアルドスに俳優兼演出家として参加。そこで女優カルメン・マウラと知り合い、劇団員の協力を得て16ミリの長編映画「ペピ、ルシ、ボン、その他の娘たち」(80)を監督する。この作品は独立系の映画館で深夜上映され、そのひとつアルファヴィルから出資を受けて2作目「セクシリア」(82)を完成。それを機に12年間勤めた会社を辞め、職業監督となる。性的快楽と死をテーマにした5作目「マタドール〈闘牛士〉・炎のレクイエム」(86)から海外でも注目を集め、ほぼ同時期に脚本を書いた「欲望の法則」(87)、続くカルメン・マウラら常連俳優をそろえた舞台劇風の「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(88)で世界的な人気を得る。この頃、弟アグスティンと自らのプロダクション会社エル・デセオを設立。映画会社の意向に左右されない芸術的・経済的な独立をかなえ、以後、作家性を自由に表現してゆく。【年齢とともに作品も深化】鮮烈な色彩感覚、狂騒的な世界観、奇抜な物語性で熱狂的なファンを生み、初期のドタバタ・コメディ(「セクシリア」「バチ当たり修道院の最期」) から、中期には女性ドラマ(「ハイヒール」「キカ」)と濃厚なメロドラマ(「私の秘密の花」「ライブ・フレッシュ」)へと年を経るごとに作風は円熟味を深め、98年、集大成となる「オール・アバウト・マイ・マザー」を発表。この作品でカンヌ国際映画祭監督賞とアカデミー賞外国語映画賞を、続く「トーク・トゥ・ハー」(02) でアカデミー賞脚本賞を受賞する。自身の故郷ラ・マンチャを舞台に、亡き母への思慕を込めた最近作「ボルベール〈帰郷〉」(06)では、再びカンヌ映画祭で脚本賞受賞に加えて6人の女優陣に女優賞をもたらし、名実ともにスペイン映画界を代表する存在となる。90年代に入ってからは才能を見込んだ若手の支援もするようになり、アレックス・デ・ラ・イグレシア(「ハイル・ミュタンテ!/電撃XX作戦」) やイザベル・コヘット(「死ぬまでにしたい10のこと」)らの作品をプロデュース。またギレルモ・デル・トロをスペインに招き、「デビルズ・バックボーン」(01)を製作している。