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ルネ・クレール

  • Rene Clair
  • 監督/脚本/原作/製作
本名
出身地 フランス、パリ
生年月日 1898年11月11日
没年月日 1981年3月15日

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略歴

【フランスのトーキー映画最大の功労者】フランスのパリ生まれ。リセ・モンテーニュ、リセ・ルイ・ル・グランに学ぶ。1917年に軍務につき野戦病院に配属される。ルネ・デスプレ(Rene Despres)の名でジャーナリストとなり、20年からゴーモン・スタジオに入り、ルイ・フイヤード監督のもとで俳優となり、ルネ・クレールと名乗る。ジャック・ド・バロンセリの助監督を務めたこともあった。23年にSFコメディ中編「眠るパリ」を撮り、翌年には音楽家エリック・サティのバレエの幕間に上映する目的で製作されたシュールレアリスムな「幕間」を手がけた。ダダイズムの画家マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア、マン・レイなどがキャスティングされている。この2作で注目され、ロシアの作家マヤコフスキーは彼のために脚本を書いたほど(映画化は実現はしなかったが)。トーキー時代がフランスにも到来し、映画芸術の終焉が心配されたが、クレールは軽快な音楽、歌曲に映像を組み合わせて、パリの街を謳いあげた「巴里の屋根の下」(30)や「ル・ミリオン」「自由を我等に」(31)、「巴里祭」(32)、「最後の億万長者」(34)等のコメディで、トーキー技術を巧みに我が物とした。イギリスでアレキサンダー・コルダ製作の「幽霊西に行く」(35)を撮り、戦時下の40年には渡米して「奥様は魔女」(42)、「そして誰もいなくなった」(45)を撮る。46年に帰国してジェラール・フィリップ主演で「悪魔の美しさ」(49)、「夜ごとの美女」(52)、「夜の騎士道」(55)などを監督。レジョン・ドヌールを授与される。【映画人初のアカデミー会員】50年代後半、『カイエ・デュ・シネマ』の批評家に、彼は旧主派の筆頭と非難された。この攻撃に加えて“Tout l.or du monde”“Les Fetes galantes”の不入りで、彼の名声は大いに傷ついた。しかし、フランスのトーキー映画に彼が果たした功績、ウィットに富み、チャーミングな雰囲気を漂わせたコメディは、時代を越えて残っている。60年に、40人の会員で構成されるアカデミー・フランセーズの会員に、映画人としては初めて選ばれる。彼の作品の魅力は世界中で称えられ、チャールズ・チャップリンや小津安二郎など同時代の監督の作品に強い影響を与えていることでも知られる。日本では本国以上ともいうべき高い人気と評価を獲得、「自由を我等に」と「最後の億万長者」は、いずれも公開した年のキネマ旬報ベスト・テン1位に選出された。

キネマ旬報の記事

1981年4月下旬号

追悼:ルネ・クレール

1970年10月下旬号

顔と言葉:

1970年10月上旬秋の特別号

随想:

1958年10月上旬40年記念号

創刊40年記念特集:創刊40年を祝う各国映画人よりのメッセージ:エリック・ジョンストン、バーネイ・バーバラン、G・グラス、J・クイン、ジョン・デヴィス、R・クラヴェンヌ、ルネ・クレール、ジェラール・フィリップ、ヴォルフ・シュワルツ、アドルフ・ズーカー、J・パーキンス、W・セルツァー、ラルフ・ブロームヘッド、ジャック・フロオ、ジャン・ルノアール、レミイ・テソノオ、A・バウエル、ディノ・デ・ラウレンティス

1956年臨時増刊 1957フランス映画大鑑

フランス第一線監督の表情:ルネ・クレール

1956年増刊 世界映画監督大鑑

特集グラヴィア 世界第一線監督グラフィック:ルネ・クレール

1956年5月上旬号

座談会 ルネ・クレールの「遊び」と「諷刺」-「夜の騎士道」をめぐって:菅原卓×井上勇×中村真一郎×永戸俊雄

1954年増刊 フランス映画大鑑

フランス映画第一線の作家:ルネ・クレール

フランス映画 監督群像:ルネ・クレール

1954年新年特別号

ルネ・クレール論:

サイレント時代のルネ・クレール:

シナリオ:夜ごとの美女

1951年10月上旬秋季特大号

ルネ・クレール小論: