【フランスのトーキー映画最大の功労者】フランスのパリ生まれ。リセ・モンテーニュ、リセ・ルイ・ル・グランに学ぶ。1917年に軍務につき野戦病院に配属される。ルネ・デスプレ(Rene Despres)の名でジャーナリストとなり、20年からゴーモン・スタジオに入り、ルイ・フイヤード監督のもとで俳優となり、ルネ・クレールと名乗る。ジャック・ド・バロンセリの助監督を務めたこともあった。23年にSFコメディ中編「眠るパリ」を撮り、翌年には音楽家エリック・サティのバレエの幕間に上映する目的で製作されたシュールレアリスムな「幕間」を手がけた。ダダイズムの画家マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア、マン・レイなどがキャスティングされている。この2作で注目され、ロシアの作家マヤコフスキーは彼のために脚本を書いたほど(映画化は実現はしなかったが)。トーキー時代がフランスにも到来し、映画芸術の終焉が心配されたが、クレールは軽快な音楽、歌曲に映像を組み合わせて、パリの街を謳いあげた「巴里の屋根の下」(30)や「ル・ミリオン」「自由を我等に」(31)、「巴里祭」(32)、「最後の億万長者」(34)等のコメディで、トーキー技術を巧みに我が物とした。イギリスでアレキサンダー・コルダ製作の「幽霊西に行く」(35)を撮り、戦時下の40年には渡米して「奥様は魔女」(42)、「そして誰もいなくなった」(45)を撮る。46年に帰国してジェラール・フィリップ主演で「悪魔の美しさ」(49)、「夜ごとの美女」(52)、「夜の騎士道」(55)などを監督。レジョン・ドヌールを授与される。【映画人初のアカデミー会員】50年代後半、『カイエ・デュ・シネマ』の批評家に、彼は旧主派の筆頭と非難された。この攻撃に加えて“Tout l.or du monde”“Les Fetes galantes”の不入りで、彼の名声は大いに傷ついた。しかし、フランスのトーキー映画に彼が果たした功績、ウィットに富み、チャーミングな雰囲気を漂わせたコメディは、時代を越えて残っている。60年に、40人の会員で構成されるアカデミー・フランセーズの会員に、映画人としては初めて選ばれる。彼の作品の魅力は世界中で称えられ、チャールズ・チャップリンや小津安二郎など同時代の監督の作品に強い影響を与えていることでも知られる。日本では本国以上ともいうべき高い人気と評価を獲得、「自由を我等に」と「最後の億万長者」は、いずれも公開した年のキネマ旬報ベスト・テン1位に選出された。