【娯楽映画、アクション映画に生涯を賭けて】アメリカ・イリノイ州シカゴの生まれ。父がマンドリン奏者だったために巡業に伴って転居を繰り返す。高校を卒業後、父がロンドンの楽団の監督に就任したので渡英してケンブリッジ大学に入学。19 歳のとき単身で帰米、ロスに住みつき母方のおじの紹介でワーナー・ブラザーズのフィルムライブラリーの仕事をする。やがて新設されたインサート部の次長を経て、モンタージュ部を会社に設置させ、ラオール・ウォルシュの「彼奴は顔役だ!」、マイケル・カーティスの「カサブランカ」など様々な作品のモンタージュ・シーンを撮る。39 年からセカンド・ユニットの監督になり、ハワード・ホークスの「ヨーク軍曹」、マイケル・カーティスの「渡洋爆撃隊」、そしてサム・ウッドの「サラトガ本線」では200 人弱の大乱闘シ―ンを手がける。監督になりたくて、会社幹部のジャック・ワーナーに再三頼み込み、やっと45 年に短編“Star in the Night” を撮る。キリスト誕生の寓話で、アカデミー賞短編賞を受賞した。そして翌46 年に長編“The Verdict” を撮り、監督としてのスタートを切る。続々と監督するという状況とはならず、テレビのパイロット・フィルム作りなどで好評を得る時期を経て、ハワード・ヒューズの勧めでRKO に移籍。54 年に監督した「第十一監房の暴動」で興行的にも批評的にも成功を収めた。これはサム・ペキンパーを初めて助手として使った作品でもある。ミッキー・ルーニー主演の「殺し屋ネルソン」(57)、エルヴィス・プレスリーの「燃える平原児」(60)などで徐々に頭角を現す。「殺人者たち」(64)は、犯罪をめぐる人間たちの愚かな姿を描いたハードボイルドの秀作だった。【「ダーティハリー」誕生!】68 年、拳銃を奪われた刑事の執念の捜索を描いた「刑事マディガン」を監督。次いでクリント・イーストウッド主演で「マンハッタン無宿」を撮る。以降、主演俳優として、また監督の師匠として長い付き合いとなるイーストウッドとの初コンビ作である。それは西部劇「真昼の死闘」(70)、サスペンス「白い肌の異常な夜」(71)と続き、「ダーティハリー」(71)に結実する。サンフランシスコの一匹狼的刑事の活躍を凄まじいアクションで描き、俳優としてのイーストウッドの代表作とした。なお、この直後、イーストウッド初監督作品「恐怖のメロディ」(71)に俳優としてゲスト出演している。その後はジョン・ウェインの遺作となった「ラスト・シューティスト」(76)、チャールズ・ブロンソンと組んだ「テレフォン」(77)、イーストウッドの「アルカトラズからの脱出」(79)などを発表、生涯アクション映画監督として活躍した。