【“男性映画の監督”と呼ばれながら名作を次々に演出】アメリカのカリフォルニア州ラ・カナダ(パサディナ説もあり)の生まれ。自動車工、レーシングカー・ドライバーなどを経て、俳優マーシャル・ニーランのお抱え運転手を務めたことが縁で、1910年にスタントマンとしてフライングAスタジオに入った。やがて、アラン・ドワン監督の助手となり、ついでダグラス・フェアバンクスの主演映画のカメラマンとなり、「ドーグラスの荒療治」、「米国人皇帝」を撮影。グリフィスの「イントレランス」でもカメラを廻している。第一次大戦中は陸軍通信隊に所属し、戦後はウィルソン大統領主導で行われたベルサイユ平和会議の写真を撮る。19年にフェアバンクス主演の「暗雲晴れて」で初めて監督業に挑戦(ただし、これは共同監督であり、個人映画のような作品だった)。翌20年、再びフェアバンクス主演の「臆病男」で単独監督としてデビュー。ゲイリー・クーパー主演の西部劇「ヴァージニアン」(29)で知られるようになる。32年にMGMと契約し、同社のトップ監督の一人となり、「紅塵」(32)、「我は海の子」(37)といった大作をまかされる。MGMにおける好敵手ジョージ・キューカーが“女性映画の監督”とされていたのに対して、フレミングは“男性映画の監督”と呼ばれた。【超大作「風と共に去りぬ」の監督】もっとも有名な彼の作品といえば39年の二作品、すなわち「オズの魔法使」と「風と共に去りぬ」だが、いずれも別の監督の演出に不満なプロデューサーに頼まれた助っ人的な作品で、それだけスタジオの信頼が厚かったという証明になる。「オズの魔法使」の撮影が完全に終わらぬうちに「風と共に去りぬ」の撮影に回された。この作品でアカデミー賞の監督賞を得ているが、ジョージ・キューカーやサム・ウッドらが一部の演出をしていることもあってか、監督の功績が云々されることはなく、製作の苦労話やヴィヴィアン・リーについて語られることが多いのは不運ともいえる。「風と共に去りぬ」のプロデューサーであるデイヴィッド・O・セルズニックに「サラリーではなく歩合給にしようか」と言われ、「冗談言っちゃいけないよ、デイヴィッド。この映画は歴代一の無用の長物になりそうだぜ」と答えたという。
41年の「ジキル博士とハイド氏」は「我は海の子」で組んだスペンサー・トレイシーがジキルとハイドの二役を演じた大作だったが、この作品を最後の輝きとして、以後は下降線をたどることになる。