【過酷な運命に必死に抗う人々を描く】オーストリアのウィーン生まれ。建築家を志し、工科大学に学ぶ。パリで漫画家、ファッション・デザイナー、画家として青春時代を過ごし、1914年にウィーンに戻って2年間の軍隊生活を経験する。除隊後、映画の脚本家となり、18年にベルリンに移住し、デクラ社で脚本読みとストーリー編集の仕事に従事。19年に“Halbblut”で監督デビューを果たす。以後、「黄金の湖」などミステリー色の強い作品を監督、日本を舞台にした“Harakiri”(19)などでは日本趣味も取り込み、日本人にはいささか奇異な印象を抱かせる描写も織り込まれていた。21年に「死滅の谷」を監督。死神に愛する人を奪われた女性の愛の強さを謳いあげた内容だが、過酷な運命に必死で抗う人々はラング作品に共通するテーマとなった。「ドクトル・マブゼ」(22)と「スピオーネ」(28)はともに稀代の犯罪王を描く作品で、「ドクトル・マブゼ」は32年、60年と二度リメイクしている。24年にはゲルマン民族の叙事詩を描く「ニーベルンゲン」二部作を高予算をかけて撮りヒットしたので、続く「メトロポリス」には500万マルクという空前の製作費をかけた。SF映画の金字塔という高い評価を受けたが、興行的には失敗。29年には宇宙SF「月世界の女」、31年にはスリラー「M」を監督。【戦時中はナチ批判映画を連発】24年に再婚した脚本家のテア・フォン・ハルボウはナチ党員で、母親がユダヤ人であるラングとは33年に離婚している。ナチのゲッベルス宣伝相は彼にナチの映画を撮らせようとしたが、ラングはそれを避けてフランスに脱出する。フランスで「リリオム」(34)を撮ったあと、アメリカに渡り、35年に市民権を取得。30年代後半は「激怒」(36)、「暗黒街の弾痕」(37) などで運命に翻弄される主人公を描き、「地獄への逆襲」(40)といった西部劇も手がけている。戦時中は「マンハント」(41)、「死刑執行人もまた死す」(43)、「恐怖省」(44)といったナチ・ドイツに反対する映画を撮り、40年代半ばにはエドワード・G・ロビンソン、ジョーン・ベネット共演でサスペンス映画「飾窓の女」(44)と「緋色の街/スカーレット・ストリート」(45)を監督、以後はフィルム・ノワールが増えていく。58年に帰独し、インドを舞台にした「大いなる神秘」(59)と「怪人マブゼ博士」(60)を監督。64年にはジャン=リュック・ゴダール監督の「軽蔑」に映画監督の役で出演している。