【初期から現在までわが道を歩み続けるカルト監督】アメリカ、モンタナ州ミズーリ出身。少年時代はボーイスカウト、高校の卒業パーティではプロム・キングに選ばれる優等生、高校卒業後は画家を目指してペンシルヴェニア美術アカデミーへ入学し、絵画の他にアニメーションや映画製作に興味を持ち始める。この時期に作った短編アニメーション(“The Alphabet”)がAFI(アメリカン・フィルム・インスティテュート)の目に留まり、奨学金を得る。その資金をもとに、初長編映画「イレイザーヘッド」(77)を4年がかりで作り上げる。この作品はニューヨークのアートシアターで深夜上映され、口コミで少しずつ話題となり、3年以上のロングラン・ヒットとなった。これを気に入った映画監督メル・ブルックスに「エレファント・マン」の監督に抜擢される。完成した映画は〈実話を基にした感動のヒューマン・ドラマ〉として評判を呼び、アカデミー賞では作品賞を含む8部門にノミネートされ、リンチは一躍ハリウッド注目の若手新人監督となる。しかし、大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスに指名されて撮ったSF大作「砂の惑星」が、興行的に大敗。その後、自らの企画をラウレンティスに持ち込み、500万ドルの低予算で作った「ブルーベルベット」(86)で2度目のアカデミー賞監督賞候補となり、「エレファント・マン」で作られたヒューマンなイメージを払拭する。続く「ワイルド・アット・ハート」(90)でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを、2001年には「マルホランド・ドライブ」で同映画祭監督賞を受賞。これらの作品で、健全な郊外生活に潜む悪徳や不安、モラルを揺さぶる不穏な世界を鮮烈に描き出し、カルト監督として独自の地位を確立する。【『ツインピークス』で人気が世界に浸透】90年代前半にはテレビドラマにも進出し、製作総指揮・企画・監督を手がけた『ツインピークス』が、アメリカのみならず世界中で大ブームを巻き起こす。日本におけるリンチ人気は本作から始まったところが大きい。ドラマ自体は打ち切りで終わったものの、リンチは劇場版「ツイン・ピークス/ ローラ・パーマー最期の7日間」も製作し、テレビドラマの映画化作品としては異例のカンヌ映画祭出品作に選ばれた。世界的な知名度と評価の高さとは裏腹に、ハリウッド・システムとは相容れない資質のため、近年は国内ではなくスタジオ・カナルなどフランスの会社から資金を受けて製作することが多い。とりわけ、近作「インランド・エンパイア」(06)は製作に2年半かかり、結果的にほぼリンチの自主映画となった。