福岡県福岡市の生まれ。本名・前田禎穂(さだほ)。4歳の時に千葉県君津市に転居し、県立木更津高校を経て、1957年、日本体育大学の器械体操科に入学。その後、東映第6期ニューフェイスに合格したため中退し、60年4月に東映と専属契約を結んで、俳優の道に進む。同年、テレビ朝日『七色仮面』、次いで『アラーの使者』の主役に抜擢されてテレビデビューし、翌61年の「警視庁物語・不在(アリバイ)証明」で映画初出演。深作欣二監督「風来坊探偵・赤い谷の惨劇」で初主演を飾る。その後は、主演の傍ら鶴田浩二、高倉健らの作品に助演。野田幸男監督「やくざ刑事」70がシリーズ化されて、「マリファナ密売組織」など4本に主演した。その間の68年には、激しいアクションに挑んだ主演ドラマのTBS『キイハンター』がスタートし、たちまちお茶の間の人気をさらう。国民的な人気者となった千葉は、映画の世界でもアクションスターとして再認識された。69年、中島貞夫監督「日本暗殺秘録」では京都市民映画祭・演技賞受賞。73年、深作監督「仁義なき戦い・広島死闘篇」では凶暴な沖縄の暴力団組長を好演して高く評価されるが、実録路線には組み込まれず、空手活劇のヒーローに扮した鷹森立一監督「ボディガード・牙」が大ヒット。以後も「激突!殺人拳」「逆襲!殺人拳」74、「けんか空手・極真拳」75などの空手映画に次々と主演、空手映画というジャンルを確立、不動の地位を固めた。これらの空手アクションは海外でも人気を呼び、“サニー・チバ”の愛称で親しまれる。空手映画が一段落した78年には、東映が久々に手がけた大型時代劇である深作監督「柳生一族の陰謀」で、柳生十兵衛を好演。ダイナミックな殺陣と新鮮なイメージで当たり役となり、時代劇スターとしての一面も持つようになり、第2回日本アカデミー賞で優秀助演男優賞を受賞した。齋藤光正監督「戦国自衛隊」79では、戦国時代にタイムスリップした自衛隊の隊長を演じるとともにアクション監督も手がけ、89年の降旗康男監督「将軍家光の乱心・激突」でもアクションシーンの演出を担当。それらの延長線上で、90年には第1回監督作品となる「リメインズ・美しき勇者(つわもの)たち」を手がける。70年に設立した“ジャパンアクションクラブ(現・ジャパンアクションエンタープライズ)”では、アクションのできる俳優やスタントマンの養成を継続して行ない、志穂美悦子、真田広之、伊原剛志、堤真一らを輩出した。テレビでは『キイハンター』のあとも、NET(現・テレビ朝日)『ザ・ボディガード』74、『燃える捜査網』75、フジテレビ『柳生一族の陰謀』78、『影の軍団』80~85、テレビ朝日『柳生十兵衛あばれ旅』82などのアクションドラマに主演。日本アクション界の第一人者として広くアピールしたほか、向田邦子脚本のNET『七色とんがらし』76、鎌田敏夫脚本のNHK『十字路』78、山田太一脚本のTBS『深夜にようこそ』85、『夢に見た日々』89など非アクションの作品でも存在感を発揮する。72年、『キイハンター』で共演した野際陽子と結婚。一人娘は“真瀬樹里”の名で、94年の大森一樹監督「シュート!」で女優デビューした。92年、ハリウッドのスカイアクション「エイセス・大空の誓い」に出演したのを機に、活動の拠点をアメリカ・ロサンゼルスに移す。98年の香港映画「風雲・ストームライダーズ」では、香港電影金像奨の主演男優賞に外国人として初めてノミネートされた。2003年、クエンティン・タランティーノ監督「キル・ビル Vol.1」に武術指導を兼ねて出演。05年のハワイ映画祭で、それまでの功績を讃えた“マーヴェリック・アワード”を受賞している。日本では、企画・総指揮をつとめた「新・影の軍団」03~05、やくざもののOVや小規模公開映画、フジテレビ『できちゃった結婚』01、テレビ朝日『アストロ球団』05、NHK『風林火山』07、NHK『おわこんTV』14(文化庁芸術祭参加)などのテレビドラマにも出演する。おしどり夫婦として知られた野際とは、海外進出が本格化した94年に離婚。96年に28歳年下の一般女性と再婚し、二男をもうけた。07年、自らの主演映画「親父」を“和千永倫道(わちなが・りんどう)”の名で井出良英と共同監督。海外では“JJサニー千葉”の名で活動を続ける。2021年8月19日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎のため、千葉県内の病院で逝去。享年82歳。