【性を通して人間を描き、日本映画の歴史を変えた鬼才】佐賀県佐賀市の薬種問屋の長男。早くから文学に親しむ。1945年、学徒兵入隊を避けるため九州帝国大学付属医学専門部に進むが間もなく終戦。46年、肋膜炎にかかり半年の病床生活を送る。小説家を志して47年に旧制早稲田大学第二高等学院に入学し、新制切り替えで早大文学部英文科生となる。卒業後の53年、松竹京都撮影所に入る。55年に日活へ移籍。松竹京都のスター女優・島崎雪子と結婚し、話題の助監督となる(以後、離婚と再婚を繰り返す)。主に斎藤武市監督「渡り鳥」シリーズなどのチーフを務める。68年、「かぶりつき人生」でデビューするも興行は惨敗で次回作の話は来ず、テレビ・ドラマの演出をする。71年、日活がロマン・ポルノ路線を開始。多くの同僚が会社を離れるが、逡巡しつつ留まる。しかし低予算の制約内なら自主企画を認められることは魅力的で、これをチャンスとして4年振りの第2作「濡れた唇」を撮る。性の営みを人間の根本と捉える考え、軍事教練の教官に殴られる日々に芽生えた権力への反撥など、蓄積されたものを一気に覚醒し、続けて撮った「一条さゆり・濡れた欲情」(72)は大ヒット、キネマ旬報ベスト・テンにも選ばれて大きな注目を集める。どこか乾いた眼差しで長回しを続けながら、やがて俳優の肉体の実感をフィルムに輝かせるのが演出の特色。73年には「恋人たちは濡れた」「四畳半襖の裏張り」など4本を発表。大手が次々と製作縮小する中、田中登、小沼勝らとともに目覚ましい活躍を見せる。成人映画の世界が、撮影所システムの伝統と新しい表現の実験精神が出会う理想の場たり得ると証明し、日本映画のその後の歴史を大きく変える。【メジャーとなってもエロスの世界を追求】74年、東宝のプロデューサーに招かれて初の他社作品「青春の蹉跌」を撮る。主演の萩原健一とは深く信頼しあう関係になり、同年にテレビ・ドラマ『傷だらけの天使』の2話分、翌75年には「アフリカの光」を演出。以降も他社作品を手掛けながら、ロマンポルノのエースとして「赫い髪の女」(79)、「嗚呼!おんなたち・猥歌」(81)など傑出した作品を送り出す。80年代に入って病気で倒れるが、再び萩原と組んで「もどり川」(83)、「恋文」(85)、「離婚しない女」(86)と連城三紀彦原作の3本を監督。大人の恋愛映画として好評を博す。88年に一般映画に復帰したにっかつの新ブランド〈ロッポニカ〉の第一弾「嚙む女」以後、肺気腫を患って入退院を繰り返し空白期間が続くが、酸素ボンベに車椅子で現場に臨む執念を見せ、「棒の哀しみ」(94)を撮る。95年2月、OV作品『インモラル・淫らな関係』リリース前に急性肺炎で死去。