東京市下谷区(現・東京都台東区)の生まれ。本名・田所康雄。父・友次郎は元・地方新聞の政治記者。母・タツは元代用教員で仕立物の内職をして貧しい家計を助けた。6歳上の兄がいたが25歳で亡くなっている。板橋の棟割長屋に引越し、少年時代の大半はそこで過ごした。板橋城山高等小学校を経て旧制巣鴨中学(現・巣鴨高校)に入学。家庭は暗く、学校の成績も悪く、グレて不良の群れに加わり喧嘩に明け暮れた。中学時代は戦争中で、学徒動員により板橋にある飛行機のラジエーター工場に通う。その工場で15~6人の不良グループの兄貴分となり、無断で職場を離れ憲兵にどやされたりした。敗戦をこの工場で迎え、荒廃した戦後の世相の中で、上野の不良少年の仲間となる。もっとも不良仲間とは言っても、のちに消防局署長や大学教師や大蔵省の役人になった者もいる。誰もが荒っぽく生きていた、そんな時代だった。中学を卒業したのは1945年。翌46年には友人の父の新派軽演劇の座長の誘いでその一座の幕引きとなり、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の日活館で『阿部定一代記』という芝居に初出演。以降、さまざまな劇団を渡り歩き、51年6月、浅草六区の100万ドル劇場の専属コメディアンになる。53年にはストリップ劇場のフランス座に。当時のコメディアンの仲間には、谷幹一、関敬六、八波むと志、佐山俊二、南利明、裏方にはのちに作家となる井上ひさしがいた。だが、不摂生がたたり、54年に肺結核で倒れ手術を受ける。以後、生活を改め、健康には細心の注意を払うようになった。コメディアンとして人気が高まった渥美は、やがてテレビに迎えられ、59年の日本テレビ『すいれん夫人とバラ娘』の三枚目でデビュー。61年にスタートしたNHK『若い季節』と『夢であいましょう』のレギュラーとなり、お茶の間の人気を得ていく。やがて62年のフジテレビ『大番』の主演でスターダムに乗る。この主人公は田舎者で図々しく、ものすごいバイタリティで人をかきわけて出世するのだが、愛嬌があって憎めないという人物。こういう人物を演じると精彩を放つことが認められ、翌63年、松竹の野村芳太郎監督「拝啓天皇陛下様」に主演。主人公の山田一等兵は貧農生まれの粗暴な男で、世間ではまともに相手にされない前科者だが、軍隊の中では喰う心配もなく、文盲の彼に読み書きまで教えてくれる。猛訓練も上官に殴られることも平気な彼は、軍隊こそ天国だと思いこむのである。除隊が近づくと天皇陛下に手紙を書いて軍隊に置いてもらおうとさえ思うのだった。こういう愛すべき底辺の庶民を誠に生き生きと演じ、映画俳優としての地位を確立した。次いで同じ63年には、東映の沢島忠監督「おかしな奴」で戦後爆発的に人気者となった三遊亭歌笑に扮し、65年の羽仁進監督「ブワナ・トシの歌」ではアフリカの奥地に長期ロケを敢行し、学術調査に行く日本人学者のためにプレハブ住宅を建てる住宅会社の社員に扮した。原住民しかいない村に乗り込み、彼らを助手に雇って仕事を進める。物の考え方の違いからトラブルも起きるが、やがて渥美の人間性が彼らに評価されて、プレハブ住宅は完成する。誠に渥美ならではの好演であった。脇役として忘れられないのは、加藤泰監督「沓掛時次郎・遊俠一匹」66の前半で活躍する向こう見ずのチンピラやくざだろう。主人公の時次郎に憧れ、子分にしてくれとしつこく付きまとい、悪徳一家に斬り込みをかけて惨殺されるような男である。これも「拝啓天皇陛下様」の山田一等兵同様、愛すべき、あまりにも無知な哀れな最低辺の庶民の典型であった。67年には、瀬川昌治監督の「喜劇・急行列車」に主演。うだつのあがらない列車の車掌に扮し、佐久間良子に恋焦がれるという庶民派のキャラクターを活かした作品で、同年に「喜劇・団体列車」、翌68年に「喜劇・初詣列車」とシリーズ3作が作られた。次いで野村芳太郎監督「白昼堂々」68で、炭鉱が閉鎖されたためにスリ集団を組織する男を好演。そして、いよいよ「男はつらいよ」シリーズへと進化していくのである。68年、山田洋次の脚本によるフジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』に主演。これは渥美が不良少年時代に付き合ったテキ屋たちの思い出を山田に語ったところから、山田がイメージをふくらませたもので、翌69年には山田の監督作品として映画化、すぐに2作目の「続・男はつらいよ」も作られた。以後、毎年、夏と正月の2本のペースで製作され、3作目の「男はつらいよ・フーテンの寅」を森﨑東、4作目の「新・男はつらいよ」を小林俊一が監督した以外はすべて山田のメガホンにより、次々と大ヒットを記録して松竹の屋台骨を支えるという驚異的シリーズとなる。山田の作劇の巧さや丁寧な演出による成功であることは間違いないが、渥美の人生経験そのものがこのシリーズに濃縮され、映画史上でも稀有な、ひとつの典型的な人間像が作られた。この「男はつらいよ」シリーズの間をぬって、喜劇だけではなくシリアスな作品もいくつかある。今井正監督の「あゝ声なき友」72では、戦地で預かった戦友たちの遺書を遺族に届けるために全国を歩く男を演じた。山田洋次監督の「同胞(はらから)」75、「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」77などには小さな役でゲスト出演的に出ている。しかし、小さい役とは言え「男はつらいよ」以降、渥美が出ると観客は「寅さん登場」とざわめいてしまい、やはり渥美清は、常に渥美自身を演ずべき役者なのである。77年には野村芳太郎監督、横溝正史原作の「八つ墓村」にも出演、金田一耕助を演じた。豪華キャストによる絢爛豪華な映像の同作は、渥美にとっても珍しいミステリーへの出演で、松竹を代表するスターとしての存在感を見せた。その間、テレビドラマにはTBS『泣いてたまるか』66、『ヨイショ』74、そして日本のテレビ界で初のテレフィーチャー・シリーズとなったテレビ朝日『土曜ワイド劇場』の第1回作品『時間よとまれ』77に主演している。一方で「男はつらいよ」は、90年代に入ると正月だけの年1作の体制となるが、96年の48作目「寅次郎紅の花」までコンスタントにシリーズを重ね、いずれも平均して高収入を上げ続けた。「男はつらいよ」の歴代マドンナを演じた女優の出演回数を整理してみると、4回が浅丘ルリ子⑪⑮、次いで3回が竹下景子、2回が栗原小巻④、吉永小百合⑨⑬、檀ふみ⑱、大原麗子、松坂慶子。1回が、光本幸子①、佐藤オリエ②、香山美子③、長山藍子⑤、若尾文子⑥、榊原るみ⑦、池内淳子⑧、八千草薫⑩、岸惠子⑫、十朱幸代⑭、樫山文江⑯、太地喜和子⑰、真野響子⑲、大竹しのぶ⑳、木の実ナナ、桃井かおり、香川京子、伊藤蘭、音無美紀子、いしだあゆみ、田中裕子、都はるみ、中原理恵、樋口可南子、志穂美悦子、秋吉久美子、三田佳子、夏木マリ、吉田日出子、風吹ジュン、かたせ梨乃となる。まさに日本映画界を代表する女優たちが並ぶ。作品としては、中・後期にかけては「寅次郎夕焼け小焼け」76(マドンナ・太地喜和子)、「寅次郎ハイビスカスの花」80(浅丘ルリ子)、「夜霧にむせぶ寅次郎」84(中原理恵)、「知床慕情」87(竹下景子)、「ぼくの伯父さん」89(檀ふみ)などが佳作と言えよう。渥美はこの間、山田洋次がこのシリーズ以外で撮る作品に小さな役で特別出演するほかは、映画やテレビの仕事は一切断って寅さん役に専念。若い頃に病身だった体を大切にしているということもあったが、ひとつの役に固執してそれ以外見向きもしないのは、不動の役柄を築き上げたスターに相応しいことで偉とするに足る。ただし、「男はつらいよ」はあまりにもシリーズが長く続いた結果として、出演者全員が高齢化して次第に若さを失っていき、若い観客層から見離されることが心配になってきていた。渥美の寅さん自体、初めはその粗暴さと無分別さが有力な笑いの源泉だったものが、晩年にはあまりバカバカしいこともできなくなり、分別に富んだ聞き役にまわることが多くなった。それはそれで人生の年輪というものの自然であり、やがて寅さんが老人になる姿をファンとしては見届けたかったのだが、96年8月4日、肺癌のための渥美の突然の死によって、「男はつらいよ」は全48作で幕が下ろされることになった。故人の遺志通りに正子夫人と長男長女の3人だけの通夜、葬儀を執り行ない、6日になってその死を外部に発表した。「役者は私生活を見せるものではない」という信念を貫いた渥美清らしい最期だった。享年68歳。同年9月3日、国民栄誉賞が授与された。これは俳優としては、84年の長谷川一夫に次いで二人目である。渥美からの聞き書きを吉岡範明がまとめた伝記に『渥美清・役者もつらいよ』77がある。1996年8月4日、癌のため東京都文京区の病院にて逝去。享年68歳。