【大ヒットを次々と放った、異邦人の視点の映像派】ゴム園会社役員だった父の任地・旧英国領ボルネオ・サラワク王国クチン市(現マレーシア連邦サラワク州)生まれ。戦局の悪化により引き揚げて日本の学校で学ぶ。1945年3月に海軍特別幹部練習生となるが、終戦で復員。52年、日本大学芸術学部映画科を卒業して松竹京都撮影所へ入社、54年に製作再開した日活に移籍。主に滝沢英輔監督に付き、中平康「狂った果実」ではチーフ助監督を務めて石原裕次郎の本格デビューの現場に立ち会う。57年、裕次郎人気を不動にした大ヒット作「俺は待ってるぜ」で監督デビュー。新人離れしたシャープな映像で当時の青年が抱いていた脱出願望を描き、舛田利雄と共に日活アクションの主力となる。一方で新進脚本家・山田信夫とコンビを組み、「狂熱の季節」(60)、「硝子のジョニー・野獣のように見えて」(62)を発表。プログラム・ピクチャー量産体制のなかでも際立った技巧の冴えを見せる映像派として、作家色の強い作品と娯楽作の両方を担う独自の位置を確立する。大連出身でお互いに外地育ちの山田とは、日本の精神的風土を信じないアウトサイダーの視点で通じ合い、裕次郎と浅丘ルリ子が組んだ「銀座の恋の物語」「憎いあンちくしょう」(62)、「何か面白いことないか」(63)、浅丘主演の反戦メロドラマ「執炎」(64)などを生む。67年、浅丘主演・三島由紀夫原作「愛の渇き」が難解を理由に上映延期され、同年フリーに。すでに石原プロを興していた裕次郎の「栄光への5000キロ」(69)を監督、サファリ・ラリーが題材の大作をヒットさせる。【大自然が舞台のダイナミックな作風へ】以降は「雨のアムステルダム」(75)など海外が舞台のメロドラマを手掛けながら、『必殺』シリーズなどテレビドラマの演出でも活躍。78年、北海道で撮影した動物の記録映像を詩的な物語に構成した「キタキツネ物語」が大ヒット、ファミリー映画の成功例を作る。80年には実弟・蔵原惟二が監督した「象物語」を総監修。こうした実績と経験を活かし、過酷な現地ロケに挑んで完成させた「南極物語」(83)が、配収約59億円と空前のヒットに。97年に「もののけ姫」に破られるまで、日本映画歴代配収の1位を守る。パリ~ダカール・ラリーが舞台の「海へ/Seeyou」(88)では現地の状況に合わせた試みが失敗に終わるものの、次作の「ストロベリーロード」(91)では再び長期海外ロケを敢行、アメリカに移民した人々の奮闘を描いた秀作とする。