静岡県浜松市の生まれ。本名・小野栄一。家庭の事情で祖母に預けられて育つ。大阪に移転後は俳優に憧れ、1938年、親戚のつてで松竹下加茂のスター・高田浩吉の劇団に入り、修業を積む。高田の主演作に端役で出るが、病気で入院。退院後は勉強に打ち込み、44年に関西大学専門部商科に入学するも、間もなく学徒動員令により横須賀第二海兵団に二等水兵として入団する。同年、海軍飛行専修予備生徒隊に昇格。海軍航空隊にいた45年、少尉で敗戦を迎え、浜松に復員する。無為の日々を過ごしていた頃、巡業に来た高田と再会し、改めて弟子となる。松竹大船の試験に落ち、肺浸潤にかかるなど不運続きだったが、事務も几帳面に行なう態度を可愛がった高田が大曾根辰夫監督に推薦し、48年に松竹京都入社。数本の端役を経て、同年の高田主演、大曾根監督「遊俠の群れ」に、師匠から二文字もらった“鶴田浩二”の芸名で本格デビューを果たす。49年、大曾根監督「フランチェスカの鐘」で主役の青年教師に抜擢され、歌う映画スターの先駆だった高田に倣い、『男の夜曲』で歌手デビュー。この頃、松竹ニューフェイスの中尾照子と出会うが、会社の要請で関係は伏せられる。中村登監督「エデンの海」50、池田忠雄監督「乾杯!若旦那」51など順調に作品が続き、黒澤明脚本、大曾根監督の「獣の宿」51で新人の岸惠子と初共演。瑞穂春海監督「あの丘越えて」51では美空ひばりの家庭教師役を演じる。甘いマスクとどこか捨て鉢な翳りが女性の心を捉え、雑誌『平凡』の人気投票では51年から3年連続で1位を獲得。歌手としても、吉田正作曲『さすらいの舟歌』52が初めてヒットし、以降も吉田とは『街のサンドイッチマン』53、『赤と黒のブルース』55、『好きだった』56などを送り出す。52年、虚勢を張るチンピラ役で印象を残した渋谷実監督「本日休診」、小津安二郎監督「お茶漬の味」と大家の作品に相次いで出演。娯楽映画専門に満足できなくなり、同年に俳優の独立プロ戦後第1号となる“新生プロダクション”を興す。マキノ雅弘監督「弥太郎笠」52、マキノ・松林宗恵共同監督「ハワイの夜」53を新東宝配給でヒットさせ、松竹の反対を押して両作に出た岸惠子との恋愛は「戦後最大のロマンス」と騒がれる。53年1月、興行のトラブルから大阪で組員に襲われ、11針のケガを負う。新生プロの経営も難しくなり、7月よりフリーに。困難が相次いだが、家城巳代治監督の独立プロ作品「雲ながるる果てに」53に特攻隊員役で主演。特攻で死ぬ多くの友を見送ってきた思いをぶつけ、渾身の演技を見せる。フリーとなってからは各社の作品に出演、高額のギャラに見合う抜群の集客力を誇る。大映の木村恵吾監督「愛染かつら」54では京マチ子と、衣笠貞之助監督「婦系図・湯島の白梅」55では山本富士子と共演。東宝では山本嘉次郎監督「男性No.1」55と「暗黒街」56、マキノ雅弘監督「やくざ囃子」54、初代の眠狂四郎を演じた「眠狂四郎無頼控」56など。メロドラマに現代劇、時代劇とあらゆるジャンルに応じて演技の深みを備えていく。自身がこの時期の代表作として挙げているのは、宮本武蔵役の三船敏郎と共演した稲垣浩監督「決闘巌流島」56の佐々木小次郎。58年に東宝と専属契約を結び、三船主演、岡本喜八監督の「暗黒街」シリーズ59~60などで魅力を出すが決定打に欠き、助演が増える初の低迷期を迎える。この間の55年、中尾照子と結婚。のち三女をもうける。60年、二枚目人気がピークを過ぎてもなお衰えぬスター性と、現場での評価が高い演技力を買われて東映に移籍。東映でも時代劇や石井輝男監督のギャング映画などに出ながら、試行錯誤を続ける。のちにつながる重要作は、深作欣二監督「誇り高き挑戦」62のレッドパージで大新聞社を追われた記者役。全編サングラスで目の芝居を殺す演出にむしろ燃え、戦中派の孤影に凄みを滲ませる。63年、尾崎士郎の原作では脇役の俠客を主人公にした沢島忠監督「人生劇場・飛車角」に主演。佐久間良子とのメロドラマが内容の主体だったがヒットしてシリーズ化。より任俠精神を謳う石井輝男監督「昭和俠客伝」63、小沢茂弘監督「博徒」64が製作されて、東映のやくざ映画、任俠路線が本格化する。もともと役に感情すべてを投げ出す芸の虫で、義理人情に潔癖な人格が掟に耐えた末に憤怒をほとばしらせる日陰のヒーロー像に一致し、高倉健とともに一大ムーブメントを起こす。同工異曲の筋立ての量産下での極めつけが、藤純子(現・富司純子)演じる娼婦への愛と掟に引き裂かれる姿が絶品の加藤泰監督「明治俠客伝・三代目襲名」65。そして、「博奕打ち」シリーズの4作目、血涙のしがらみがギリシャ悲劇の域に達した山下耕作監督「博奕打ち・総長賭博」68。一方で、深作監督「解散式」67などの現代やくざものがあり、高倉、藤らの主演作では客分役で脇を固める。ブームの中、「古い奴だとお思いでしょうが……」と語りから始まる吉田正作曲の『傷だらけの人生』71が大ヒット。若い頃の闘病の影響で難聴のため、手を左耳に添えて歌う姿が新たなトレードマークになる。だが、東映任俠路線のマンネリ化は避けられず、主流が実録路線へ変わった73年より出演が激減。山下耕作監督「あゝ決戦航空隊」74での熱演を最後に、初めて映画から離れる。しかし、大阪梅田と新宿コマでの舞台、南島の遺骨収拾基金チャリティショーと精力的に活動。軍歌のレコードを出すなど思想面を批判されたが、一切弁解しなかった。70年代の転機はテレビドラマ。戦争で生き残った慙愧の念、平和な現代への疑問を脚本家・山田太一に語り、それがNHK『男たちの旅路』76に反映される。「俺は若い奴が嫌いだ」と言い切る主人公・吉岡と若者たちの真摯な関係は清冽な反響を呼び、79年まで計13回のシリーズに。3年ぶりの映画出演となった中島貞夫監督「やくざ戦争・日本の首領(ドン)」77では大組織の冷徹な幹部を演じ、かつての任俠像を否定する複雑な異色作とする。78年には森谷司郎監督「聖職の碑」の教育者役で18年ぶりに東宝作品で主演。以降も松方弘樹主演の東映「修羅の群れ」84と「最後の博徒」85、NHK大河ドラマ『獅子の時代』80、同局『勇者は語らず』83などに助演する。しかし、85年頃から体調がすぐれず、87年6月16日に肺癌のため死去。戦後初のアイドル男優、やくざ映画のアイコン的存在と常にトップに立ち、その孤独に耐えながら味わいを深めてきた大スターの遺作は、山田太一脚本のNHK『シャツの店』86。下町のワイシャツ仕立屋主人・周吉の姿は職人の律儀さ、はにかんだ純情に富み、かつてなく自身に近い人物を演じて新たな境地を示した矢先だった。