東京市下谷区根岸(現・東京都台東区)の生まれ。4歳の時に蒲田に移り住む。父は写真館を経営。軍国教育を疑わずに育ちつつ、ラジオの落語や漫才を熱心に聞き、寄席にも通った。1945年、麻布中学から海軍兵学校を受験し合格、予科生となるが半年で終戦を迎える。復学後は演劇に傾倒して、加藤武、大西信行らと演劇部を作る。47年に早稲田大学第一高等学院(翌年に新制に移行)に入学し、学生劇団に参加。そこで今村昌平、北村和夫らと出会う。大隈講堂で公演しながら出版社や家庭教師などのアルバイトを掛け持ちし、正岡容が顧問の落語研究会を結成。合間を縫っては浅草や吉原で遊ぶ。のちの活動の素地を作る濃密な日々を送っていた49年、改めて演劇の基礎を学ぼうと、俳優座付属俳優養成所に2期生として入所。その直前に父を病気で失う。初舞台は岸田國士・作『椎茸と雄弁』51。翌52年に早稲田大学第一文学部仏文科を卒業する。養成所を卒所し、渡辺美佐子らと新人会を結成した53年、佐分利信監督「広場の孤独」で映画初出演。翌54年に今村が製作再開した日活の助監督となり、その紹介で日活と本数契約を結ぶ。小沢の喜劇人としての個性を最初に引き出したのは今村が師事していた川島雄三監督で、「愛のお荷物」「あした来る人」55、「洲崎パラダイス・赤信号」56などに続けて起用され、常連俳優に。57年の「幕末太陽傳」では芸者の心中相手にされてしまう男を情けなさたっぷりに演じ、麻生中学の同期だったフランキー堺が主演する喜劇や、監督に昇進した今村の作品でもアクの強さで笑わせる。新劇俳優が小心・強欲・助平な三枚目の脇役を嬉々として演じる、その異端ぶりで注目されるが、今村の「にあんちゃん」59では一転して炭鉱で実直に働く在日朝鮮人を好演、ブルーリボン賞助演男優賞を受賞する。60年に劇団俳優小劇場を結成、サルトルやビュヒナーの作品を上演する一方、新劇寄席と銘打った田中千禾男・作『とら』で芸術祭奨励賞。映画では変わらず日活アクションや石原裕次郎主演作に精力的に出演し、他社作品やNHKのテレビドラマ『若い季節』にも出る。狂的テンションで場をさらう怪優時代の真骨頂といえるのは、カタコトの日本語でまくしたてるニセ外国人に扮した川島監督の大映作品「しとやかな獣」62と、闇成金の中国人になって渥美清と演技合戦を見せた松竹の野村芳太郎監督「続・拝啓天皇陛下様」64。63年、今村・大西信行脚本の西村昭五郎監督「競輪上人行状記」で主演。堅物だったはずが競輪にのめり込んで寺を手放し、ついには「その金で旨いものを子供に食わせろ!」と叫びながら次のレースを当てる予想屋になる僧侶役で、禍々しさに満ちた転落を鬼気迫る熱演で見せる。無類の演技力は文芸作品にも望まれ、東映の今井正監督「越後つついし親不知」64で妻を犯される男を物哀しく演じて好評を得る。66年、野坂昭如原作、今村昌平監督の日活「『エロ事師たち』より・人類学入門」で再び主演。ブルーフィルム制作や売春斡旋を日々勤勉に行なうスブやん役で、今村からは「小学校の校長先生のつもりで演れ」と指示されたという。“俗”の中に生の深淵を探るテーマを体現し、キネマ旬報賞、毎日映画コンクールほかの主演男優賞を受賞。その後も増村保造監督「痴人の愛」67、田坂具隆監督「スクラップ集団」68、磯見忠彦監督「『経営学入門』より・ネオン太平記」68などで多彩に役を演じ、焼け跡を知る世代の煩悩とニヒリズムを色濃く滲ませる。この頃から伝統を西欧に持つ新劇に行き詰まりを覚え、ストリッパーや大道芸人、香具師などに取材を始める。69年、初の著書『私は河原乞食・考』を発表し、早稲田大学演劇科大学院に入り直して伝統芸能研究の郡司正勝教授に師事。「この国では、クロウトにならざるを得なかった人々が芸能をになう者としてはホンモノで、そのホンモノに対面しながら、クロウトになりたがっている私のシロウト性を、実は、『考』えてみたかったのである」(『私のための芸能野史』)と告白したように、自己の原点を探るため全国各地に残っていた門付け芸人や大道芸人などの研究に没頭する。71年、俳優小劇場を解散。同年にLP6枚組にまとめた『ドキュメント日本の放浪芸/小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸』は日本レコード大賞の企画賞を受賞。同シリーズを77年まで続けて民衆芸能の記録に大きな業績を残し、74年に芸術選奨文部大臣新人賞を得た。映画出演は70年代から減るものの、神代辰巳監督「一条さゆり・濡れた欲情」72に助演し、藤井克彦監督「実録桐かおる・にっぽん一のレズビアン」74では企画協力と、親交のあるストリッパーを応援する立場で、日活ロマンポルノにコミット。瀬川昌治監督「喜劇・女の泣きどころ」75では風俗文化のレポーターに扮し、遊び心でセルフパロディを演じる。活動はますます多岐に渡り、TBSラジオ『小沢昭一の小沢昭一的こころ』が73年から放送開始。世相や中年男のぼやきを軽妙に語って高い人気を得る。また終戦から一貫した権力嫌悪の姿勢は当時の若い世代に支持され、74年に野坂昭如、永六輔と“中年御三家”を結成。日本武道館のコンサートを満員にする。75年には執筆活動と並行して『季刊・藝能東西』発行人となり、研究の実践として芸能座を創立、4年ぶりに舞台に戻る。旗揚げ公演は永六輔・作『清水次郎長伝・伝』。テレビ出演には消極的だったが、テレビ朝日の長寿トーク番組『徹子の部屋』には76年から定期的に出演。黒柳徹子と毎回興じる仮装、コスプレが番組の名物となる。81年、盟友・今村昌平監督の大作「ええじゃないか」にプロデューサーとして関わり、自らも助演。今村作品への出演はこのあとも「カンゾー先生」98まで続いた。また、山田洋次監督「男はつらいよ・寅次郎紙風船」81で、『若い季節』の時から互いを認め合う仲だった渥美清と久しぶりに共演。寅次郎の昔のテキ屋仲間役で、ふたりが語り合う場面は浮草稼業の男たちのわびしさが染み入り、満を持したゲスト出演によって同シリーズの翳の部分を膨らませる。82年に演者ひとりの劇団“しゃぼん玉座”を旗揚げ。江戸時代の戯作者の一代記を縦横に演じた井上ひさし・作『唐来参和』が絶賛を浴び、2000年まで全国公演を続ける。80年代半ばは、ビデオ『小沢昭一の「新・日本の放浪芸」/訪ねて韓国・インドまで』を監督。長年の民衆芸能の研究・採録をアジアにまで求めた集大成で、86年のAVAグランプリビデオ部門優秀作品賞を受賞した。この間も篠田正浩監督「梟の城」99など数本の映画に出演するが、とりわけ魅力的だったのは、市川崑監督の人情時代劇「かあちゃん」01の長屋の大家役。画面の中にただいるだけで江戸庶民のおかしさを醸し出し、落語少年が送ってきた人生の幸福な到達点とさえ思わせた。94年に紫綬褒章、01年に勲四等旭日小綬章を受章。近年はトークショー『唄って語って僕のハーモニカ昭和史』で全国を公演。ハーモニカを吹き、童謡・唱歌を歌うのがおなじみの姿になる。著書は編著も含めて70冊以上。今や“芸仙”と讃えるにふさわしい高みにありながら、「あちらは世界の小澤(征爾)、こちらは横丁の小沢」ととぼける軽み、悪戯っ気はどこまでも健在である。69年に発足した“やなぎ句会”の俳人としても知られる。俳号・変哲。2012年12月10日死去。