【80~90年代を颯爽と駆け抜けた鬼才】京都府生まれ。父は映画監督の伊丹万作で、妻・宮本信子と長男・池内万作は俳優、作家の大江健三郎は義弟にあたる。高校卒業後、商業デザイナーを経て1960年に大映へ入社、伊丹一三の芸名で俳優となり、69年に十三に改名。その傍らでエッセイスト、雑誌編集、CM・ドキュメンタリー制作もこなすマルチタレントとして活躍した(60年には短編「ゴムデッポウ」を自主製作している)。84年、51歳で映画監督に転身。監督第1作「お葬式」(84)は葬式を出すことになった夫婦の一騒動をアイロニーを交えて描く。ATG系でのヒットのすえ、キネマ旬報ベスト・テン第1位や日本アカデミー賞ほかの映画賞を総なめにする高評価を獲得した。やはりキネ旬ベスト・テン1位に選ばれた第3作「マルサの女」(87)で作品の基本スタイルを完成させると、「マルサの女2」(88)、「あげまん」(90)、「ミンボーの女」(92)と同系統の作品を次々にヒットさせ、社会現象的な話題を集める娯楽映画=“伊丹映画”とのブランドも確立。新境地に臨んだ「大病人」(93)、「静かな生活」(95)は興行・批評とも満足な結果を得られなかったものの、旧スタイルに戻った「スーパーの女」(96)で盛り返した。97年末に投身自殺を遂げる。同年の「マルタイの女」が遺作となった。【日本映画に渇】アメリカで特に人気が高いのは第2作「タンポポ」(85)だが、日本が伊丹ブランドとして認め歓迎したのは、第3作以後の定型スタイルだった。マルサ、宗教法人の脱税、民事介入暴力、スーパーマーケットの商品偽装といった特異で社会性のある分野に題材を求め、的確なキャストで、その世界のノウハウを微細に紹介しつつ、時にコミカルに時に活劇的に人物たちの生態を描く。夫人・宮本信子の能力を高く評価し、彼女を活かす主演作づくりも目標に掲げ、職業人としての強いヒロイン像を日本映画に確立したことも業績に数えられよう。完全主義的なスタイル固守の面では小津にも通じ、しかしながら「ミンボーの女」で巻き込まれた暴力団員による襲撃事件の経験を「マルタイの女」に生かす抜け目なさもあった。信念をもってイメージ通りの作品をつくりあげるだけでなく、観客を喜ばせ興行的にも成功することを自らに果たしたその姿勢は、停滞感の漂う80年代日本映画に渇を入れることになった。その一方で、「お葬式」と「マルサの女」の1位獲得以外ではついにキネ旬ベスト・テン入りを果たすこともなかったように、バランスを欠いた不当な評価を下される作家でもある。独特の構図や人物配置など演出の方法論は必ずしも解明されたとは言えず、周防正行作品をはじめ伊丹スタイルが広く受け継がれ浸透していったことを含めての再評価が望まれる。