【殺気溢れる活劇を映像詩に高めたアルチザン】北海道苫小牧市生まれ。1946年、庁立苫小牧中学4年修了、慶応義塾大学予科を経て、52年、同法学部を卒業。同年4月に東映に入社、企画部を経て54年、京都撮影所製作部助監督となる。東映が早撮り・予算厳守主義の時代劇で急成長し、チャンバラ・ブームの先頭を走っていた59年9月、中編の二部作「富嶽秘帖」「富嶽秘帖・完結篇」でデビュー。即戦力となって、60年3月には市場拡大を狙った第二東映(ニュー東映)発足第1弾「次郎長血笑記」(4部作)、7月には美空ひばりの「ひばり捕物帖・折鶴駕籠」を監督、量産体制の一翼を担う。市川右太衛門の「八荒流騎隊」(61)で初の御大スター主演作を担当、ダイナミックな演出が評判となる。映画人口の急激な落ち込みでニュー東映も撤退、勧善懲悪のチャンバラ人気が曲がり角を迎えていた63年、司馬遼太郎の直木賞小説が原作の「忍者秘帖・梟の城」を硬質なタッチで撮り、製作決定前から所内で話題になっていた脚本の監督に指名される。それが「十三人の刺客」で、暴君暗殺に向かう刺客の暗闘に込めた政治性、十数分間に及ぶ凄惨な殺陣が絶賛され、京都市民映画祭監督賞受賞。〈集団時代劇〉と称された非情なアンチ・ヒロイズムの展開は「大殺陣」(64)、「十一人の侍」(67)と続く。時代劇に代わって任侠映画が主流になると、「日本暗黒史・血の抗争」(67)、「日本暗黒史・情無用」(68)などを監督。後の実録路線の先駆とするが、やくざ映画には積極的ではなく、67年の『剣』からテレビドラマの演出に活動の中心を移す。【独自のハードボイルド映像で人気に】73年から加わった『必殺』シリーズは50話以上を演出。組織に対する個人の恨みをシャープに描く闇と逆光の映像美は、数多くの現場で鍛えた蓄積から生まれたもので、おなじみのスタイル確立に貢献する。多くの人気監督が参加した『傷だらけの天使』(74~75)では、最終回まで最多の6話分を担当。79年、「その後の仁義なき戦い」で、「まむしの兄弟・二人合わせて30犯」(74)以来5年振りに劇場用映画復帰。以降、渡瀬恒彦「影の軍団・服部半蔵」(80)、松田優作「ヨコハマBJブルース」(81)、緒形拳「野獣刑事」(82)、水谷豊「逃がれの街」(83)と個性派俳優主演のアウトロー劇を次々と手掛け、若い観客の支持を集める。「必殺!Ⅲ・裏か表か」(86)ではシリーズ初期の殺気を蘇らせる。89年、現場の衝突で「ウォータームーン」を途中降板、ファンを心配させたが、OV『裏切りの明日』(90)、「泣きぼくろ」(91)などを続けて健在を示す。2000年9月、脳幹出血のため死去。遺作となった「安藤組外伝・群狼の系譜」(98)はデビュー作と同じく二部作の活劇だった。