東京都港区六本木の生まれ。本名・西山雅子(旧姓・小達)。実家は輸入雑貨商を営み、裕福な家庭環境で女優に憧れながら育った。小学校から短大まで東京女学館で学ぶ。1976年、短大在学中に初めてCMに出演し、日本テレビのドラマ『愛が見えますか』のオーディションに応募して合格する。東京女学館は生徒の芸能活動を一切認めないため中退。本名で出演した『愛が見えますか』の盲目の少女役は初演技には重荷で、降板が検討されるほどNGを出し、野村孝監督に厳しく演技指導を受けた。翌77年、カネボウ化粧品の“Oh!クッキーフェイス”キャンペーンガールに選ばれて、芸名を“夏目雅子”とする。同CMのディレクターをつとめたのは、のちに作家となる伊集院静。セミヌードを含む水着姿のモデルに家族は猛反対したが、ポスターが貼られるたびに盗まれる現象が話題を呼んで注目の存在に。同年、松本正志監督「俺の空」での映画初出演を経て、鈴木則文監督のヒットシリーズ第6作「トラック野郎・男一匹桃次郎」のマドンナ役に抜擢される。この頃より、TBS『悪魔の手毬唄』77、NHK『黄金の日日』78、『風の隼人』79、日本テレビ『オレの愛妻物語』78など数多くのテレビドラマに出演。特に大ヒットしたのが日本テレビ『西遊記』78~80で、孫悟空役の堺正章、猪八戒役の西田敏行ら芸達者を従える三蔵法師役にふさわしい清楚なカリスマ性がようやく輝きだす。フランスの映画作家クリス・マルケルは、来日時に同シリーズの再放送を見て「グレタ・ガルボ以来の美女だ!」と熱烈に讃えたという。誰もが認める並外れた美貌に当時は演技力が伴わず、「お嬢さん芸」と評されたものの、未完の大器と期待する声もまた多く、自身もそれまで顔を出す機会の多かったバラエティ番組を断って女優業に専念。3年ぶりの映画となった舛田利雄監督「二百三高地」80で、主人公(あおい輝彦)の恋人の女教師を好演する。同年、久世光彦演出のテレビ朝日『虹子の冒険』で弟の借金返済のために働くクラブのホステス、和田勉演出のNHK『ザ・商社』ではパトロンを踏み台にするピアニストをそれぞれ演じる。特に後者の悪女役は演技開眼とも言われる作品となった。同じ80年には『機関士ナポレオンの退職』で初舞台を踏み、森繁久彌と共演。「死ぬまで女優を続けたい」という覚悟を持つようになる。蜷川幸雄監督「魔性の夏・四谷怪談より」81、TBS『野々村病院物語』81などを経て、82年、五社英雄監督「鬼龍院花子の生涯」で映画初主演。土佐高知の俠客・鬼龍院政五郎(仲代達矢)とその娘・花子の半生を、養女の立場からみつめる作品全体の語り部・松恵役。ヌードのスタンドインが準備されていた濡れ場を、周囲の反対を押して自ら演じるなど強い熱意で作品に臨み、凄艶な演技が話題となって映画はヒット。松恵が啖呵を切る場面の「なめたらいかんぜよ!」という決め台詞は流行語にまでなった。本作でブルーリボン賞主演女優賞を受賞。この年は舛田利雄監督「大日本帝国」にも出演し、学徒出陣した主人公(篠田三郎)の恋人と、戦地で出会うフィリピン人女性との二役を演じる。テレビドラマもTBS『陽のあたる場所』の令嬢役、日本テレビ『幕末青春グラフィティ・坂本竜馬』のおりょう役など。舞台『築山殿始末』では杉村春子と共演し、大先輩に積極的に教えを乞う。翌83年は女優としての発展期で、森𥔎東監督「時代屋の女房」、森谷司郎監督「小説吉田学校」、蔵原惟繕監督の国民的ヒット作「南極物語」、相米慎二監督「魚影の群れ」と4本の映画に出演。「時代屋の女房」で演じたのはふらりと何度も家出してしまう骨董屋の女房役で、生活感のない女の可愛らしさを表現する難しさを経験するためにあえて出演を決めたという。NHK大河ドラマ『徳川家康』では淀君役。この時期インタビューなどで「お嬢さん芸」と自ら認めることが増える。そこには思ったことがすぐに顔に出る率直な性格ゆえ、1本の映画の中で顔つきが変わってしまう反省と同時に、持って生まれた自身の華、明朗な個性を貫かんとするプライドと向上心があった。84年、ブレイクのきっかけを作った伊集院静と7年の交際を実らせて結婚。同年の篠田正浩監督「瀬戸内少年野球団」では、戦後を迎えた生徒たちに野球を教える女教師・駒子役を凛とした魅力で演じ、いよいよ将来の大女優との声望が高まる。しかし、85年2月、西武劇場『愚かな女』公演中に体調不良を訴えて緊急入院。急性骨髄性白血病と診断されたが本人には病名が伏せられ、以来7カ月の闘病生活を送る。女優の仕事にはデビュー時から反対し、一番厳しい批判者だった母が、この間に初めて作品を見てくれたという。順調に回復に向かったものの肺炎を併発して、同年9月11日に逝去。まだ27歳の若さだった。ナレーションを担当した五社英雄監督「北の螢」84が最後の作品となった。93年、本人が残した遺産をもとに、母・小達スエを代表にして癌患者支援が目的の“夏目雅子ひまわり基金”が設立。同年、伊集院が闘病生活をもとに著した小説『乳房』が、根岸吉太郎監督により映画化される。95年には生前のスチールが使用されたキヤノンのコピー機のCMに若い視聴者から問い合わせが殺到し、反響を呼ぶ。評伝ドラマは93年と07年の二度製作され、それぞれ夏川結衣と仲間由紀恵が雅子役を演じた。女優のキャリアはわずか9年。飛躍へと向かう途次で夭折したヒロインを惜しむ声は年々強くなり、没後四半世紀を過ぎた現在も写真集が出版され、テレビや雑誌で特集が組まれている。