【東宝青春路線と、新体制東宝大作映画の騎手】東京都生まれ。父親の転勤により少年期は台湾で過ごし、空襲に遭うなどの戦禍を受ける。旧制中学2年で日本に引き揚げ、早稲田大学に進んでからは映画研究会に所属した。卒業時はジャーナリスト志望だったが東宝の助監督試験に合格、成瀬巳喜男の「流れる」「杏っ子」ほかについて映画作りを学び、のち、黒澤明の「悪い奴ほどよく眠る」から「赤ひげ」まで5作品連続でチーフ助監督をつとめた。これら10年以上の助監督生活を経て、66年に加山雄三主演の「ゼロ・ファイター 大空戦」で監督デビュー。続いて加山の「続・何処へ」や内藤洋子の「育ちざかり」(67)といった東宝青春映画を手がける。68年の犯罪立証劇「首」で初めてキネマ旬報ベスト・テンに入選し(第5位)、芸術選奨文部大臣新人賞も受賞。芥川賞原作による70年の「赤頭巾ちゃん気をつけて」も興行・評価とも好成績を収め、東宝での地位を固めた。しばらくは同様に青春映画路線での活躍を続けたが、73年、小松左京原作の大作映画「日本沈没」を任され、日本映画史上初の配収20億円超えと、観客動員880万人という空前の記録を打ち立てる。次作の「八甲田山」もキネマ旬報ベスト・テン第4位、年間配収約25億円の新記録により邦画大作一本立てロードショーの流れを作ったと報じられた。以後も大作路線に乗って「動乱」(80)、「海峡」(82)などをコンスタントに手がけるが、小松原作のSF大作「さよならジュピター」の監督を予定していた84年に胃ガンで倒れ、53歳の若さで亡くなった。【撮影所転換期の代表者】森谷が地位を固める70年前後は、折しも日本映画全体が撮影所システムの崩壊を迎えていた。東宝でも人員・製作本数の削減を敢行し、映画製作は少数の大作映画を製作する方針に転換する。それまでの森谷は、東宝の明朗快活な青春路線の作品を感性豊かにこなしつつ、「首」や「弾痕」(69)などの硬派作品も堅実にまとめていた。成瀬および黒澤の助監督経験が素直に良い方向で反映されたかたちである。方針転換後の「日本沈没」大ヒット以降は、森谷も少数大作主義をそのまま自身のフィルモグラフィーに当て嵌め、ヒットメーカーであり、かつ良質な大作に仕上げる監督として東宝や各方面から信頼された。どの作品でも、大きな困難に直面した人間が真摯に立ち向かう姿を精緻に描いている。70年代の大作主義にそれ以前の作家性を押し殺されたという見方もあるものの、弱体化する80年代日本映画においてはその早すぎた死が惜しまれる存在であったことは間違いない。