京都府京都市の生まれ。本名・加藤晃夫。父は俳優の沢村国太郎、母は女優のマキノ智子(美恵子)で、母方の祖父が日本映画の父・牧野省三。6歳下の弟が津川雅彦という芸能一家に育つ。6歳の時に初めて出演した映画は、母方の叔父・マキノ正博(のち雅弘)が監督し、父が出演した1940年の「続清水港」。“沢村アキヲ”の芸名を名乗っていた時期の代表作は、稲垣浩監督「無法松の一生」43の、阪東妻三郎演じる主人公・無法松の無償の愛を受ける軍人の遺児・敏夫役だった。戦後は学業を優先し立命館大学文学部に進むが、マキノ雅弘監督「次郎長三国志/第六部・旅がらす次郎長一家」53で喜代蔵役を演じた頃から本格的に俳優の道を進む。大学を中退し芸名を“長門裕之”に改めて、東宝系の宝塚映画など数本に出演。その後、54年より製作再開した日活に入社し、古川卓巳監督「若き魂の記録・七つボタン」55の海軍少年飛行兵役で初主演をつとめる。56年は同監督の「太陽の季節」に主演し、南田洋子と共演。しかし、この映画の端役で顔を出していた石原裕次郎が同年の「狂った果実」で彗星の如くデビュー。繊細な青年のイメージが旧式になって伸び悩むが、今村昌平の監督第1作「盗まれた欲情」58で大きく変化し、ドサ廻りの一座に揉まれるインテリ演劇青年の、深刻に悩むほどおかしいさまを演じてようやく本来の個性を掴む。以後も、「果しなき欲望」58の能天気な正直者、「にあんちゃん」59の楽天性を失わない炭鉱夫、「豚と軍艦」61のしがないチンピラと初期今村映画の顔となり、「にあんちゃん」でブルーリボン賞主演男優賞を受賞。さらに、蔵原惟繕監督「われらの時代」59、中平康監督「学生野郎と娘たち」61など日活アクションとは別系統で魅力を発揮する。61年に南田洋子と結婚し、62年よりフリー。もともと骨の髄まで映画が浸み込んだ生粋のサラブレッドであり、大映の市川崑監督「破戒」62、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞した松竹の中村登監督「古都」63などで抜群の演技を見せる。図抜けた実力のピークは、純粋な青年が戦後の歩みとともに荒んでいく吉田喜重監督「秋津温泉」62と、万事要領がいいのに無学者の渥美清を放っておけない兵隊の優しさで笑い泣かせた野村芳太郎監督「拝啓天皇陛下様」63。東映やくざ映画が人気になるとマキノ監督に呼ばれ、「日本俠客伝」シリーズなどで活躍。高倉健の弟分や仲間の役をその都度、自在に演じて任俠路線を支えるひとりとなる。秋吉久美子と絡む中年男役の藤田敏八監督「赤ちょうちん」「バージンブルース」74で、日活青春映画の終焉を体現して以降は、南田と夫婦で司会をつとめたフジテレビの音楽番組『ミュージックフェア』65~81や、山口百恵主演のTBS『赤いシリーズ』などテレビでの活動が中心になる。日本テレビ『池中玄太80キロ』80~89での、西田敏行演じるカメラマンの玄太と毎回怒鳴り合うデスク・楠公さん役は大人気に。フジテレビ『スケバン刑事』シリーズ85~88では、当初はクレジットが伏せられた“暗闇司令”役が話題を呼んだ。85年、芸能界での女性遍歴を赤裸々に綴った暴露本を出版して騒動になり、長年築いた南田とのおしどり夫婦像が崩れるダメージも負ったが、そこからさらに芸の強みを見せ、やくざの親分や戦国武将、頑固親父などの役で映画、テレビドラマ、舞台に多数助演。清濁併せ呑んだ男のしたたかな俗気と愛嬌を示す。2006年、弟でありライバルでもあった津川雅彦の“マキノ雅彦”名義での監督第1作「寝ずの番」に出演。弟子たちに愛される落語の師匠役を飄々と演じて好評を得る。この時期すでに南田に認知症の症状が表れはじめており、献身的な介護を行なうが09年10月に南田がくも膜下出血で死去。再び俳優業に専念するが、自身も11年2月に脳出血で倒れ、3カ月後の5月21日、死去した。享年77歳。