兵庫県神戸市須磨区の生まれ。父・潔、母・光子。二人兄弟の次男で、兄は作家で元衆議院議員、現・東京都知事の石原慎太郎。衆議院議員の石原伸晃、俳優の石原良純は甥に当たる。3歳の時、山下汽船小樽支店長に転任した父に従い、北海道小樽市で小学校2年までを過ごしたのち、父の重役就任とともに神奈川県逗子市に転居する。逗子小学校、逗子中学、慶応義塾高校と進み、高校ではバスケットボールの選手をしていたが、2年の時、練習中に左足の骨を砕いて選手を断念。後年、裕次郎の左足を少し引きずって歩く独特のスタイルはこの時から始まる。同じ年、好きだった酒のために父が急死。オリンピックに賭けたバスケットの夢も破れ、うち続く不幸に意気消沈する。この頃から酒、麻雀、ヨット、喧嘩、ボクシングといった、のちに兄の慎太郎が書く小説『太陽の季節』を地で行くような生活が、53年に慶応大学法学部に入るまで続いた。55年7月、慎太郎が『文学界』に発表した『太陽の季節』が文学界新人賞、第34回芥川賞を受賞。そのセンセーショナルな内容は“太陽族”なる流行語まで生み出して話題となり、56年早々に日活が映画化権を獲得する。監督に古川卓巳、主演は長門裕之と南田洋子、そして裕次郎も俳優として同作でデビューするのである。実は裕次郎のデビューについてはいくつかの説があるが、初めは主演を慎太郎自身が希望したが、その時すでに彼は6月1日付で東宝と3本の出演契約を結んでおり、五社協定の制約から不可能となって、結局、主演は長門に決定した。しかし、それならばと弟を日活に入社させて、端役ではあるが『太陽の季節』に出演させ、自分の当初の意志を貫こうとした説が有力と言われている。またこの時、日活から大映に移った市川崑監督が、慎太郎原作の「処刑の部屋」を撮ることになり、主役に裕次郎を望んだが、水の江滝子が日活に即座に裕次郎と契約するよう迫り、条件として慎太郎に『太陽の季節』と同じような小説をオリジナルで書かせ、裕次郎を主演させることを提案したという話もある。4月3日の「太陽の季節」クランクイン当日には、出演者のひとりとして裕次郎も現場に加わっている。日活入社が4月1日付。この時、慎太郎23歳、裕次郎21歳という若さだった。映画は5月17日に公開され、裕次郎は大学のボクシング部員という端役ながら、主演の長門、南田を押しのけ、そのスマートな長身、それまでのスターには見られないダイナミックな魅力、物おじしない堂々たる演技、歯に衣着せぬ率直な物腰などで一躍マスコミの寵児となる。配収1億8500万円と興行成績も上々で、日活は直ちに裕次郎主演で書かれた慎太郎原作・脚本による中平康監督「狂った果実」の撮影に入った。共演は北原三枝。この56年の「太陽の季節」「狂った果実」「処刑の部屋」など一連の太陽族映画はいずれも、マスコミが先導するいわゆる“良識派”から「反社会的」と指弾を受け、11月には映倫の改組へと発展する。「狂った果実」では裕次郎の歌の魅力も引き出され、慎太郎作詞、佐藤勝作曲の主題歌をレコーディング、これが歌手・裕次郎のデビュー曲となる。続いて巨匠・田坂具隆監督に起用され、文芸大作「乳母車」56に出演。その伸び伸びした素直な演技が高く評価され、“太陽族”批判の人たちに好感を持たれ始めるとともに、裕次郎の真価が改めて認められるようになる。この年は「地底の歌」「月蝕」「人間魚雷出撃す」、正月映画「お転婆三人娘・踊る太陽」にまで駆り出され、56年度の製作者協会新人賞を受賞。大学は56年3月末日付で中退し、57年から本格的な活躍の時代に入る。57年2月、テイチク専属となり、映画に先駆けた主題歌『俺は待ってるぜ』を専属第1回として吹き込んで、たちまち10万枚を超す大ヒットとなる。映画は5月に「勝利者」、6月に「今日のいのち」、8月に「海の野郎ども」、9月に「鷲と鷹」といずれも1億円を超す配収を記録。裕次郎はデビューからわずか1年余りで、赤字続きの日活の台所を支えるドル箱スターの座についた。続く10月、「俺は待ってるぜ」の大ヒットで人気は最大に過熱、時代を支える日本最高のスターとして、その地位は不動のものとなった。そして正月映画「嵐を呼ぶ男」57は、総配収3億5600万円という空前の大ヒット。主題歌も15日間で8万5000枚を売上げるという記録破りの成績に、ついに3月新譜のプレスは一時中止、裕次郎のレコードにかかりっきりという凄まじさとなって、「勝利者」ほかの演技によりブルーリボン賞新人賞受賞のおまけまでついた。裕次郎ブームはその後も衰えることを知らず、58年は「陽のあたる坂道」の4億円を筆頭に、「夜の牙」「錆びたナイフ」「風速40米」「赤い波止場」「紅の翼」などがいずれも2億円以上の配収を連続的に挙げるという他に類を見ない記録となる。59年にも裕次郎の登板は相変わらず続いたが、さすがに心身ともに疲労がたまり、マスコミ・ノイローゼも重なって、3月には失踪騒ぎを起こす。なにしろ裕次郎の行くところ60台の報道陣の車と数百人のファンがついて回ると言われたほどであった。失踪は2週間でケリがつき、4月に「男が爆発する」でスクリーンに復帰。7月の「世界を賭ける恋」では初の海外ロケ、正月映画「男が命を賭ける時」のヒットなど、「陽のあたる坂道」以降、やや下火になったと言われた裕次郎人気ではあるが、まだ裕次郎強しの印象を与えた。60年1月、かねてより噂のあった北原三枝とアメリカへ婚前旅行に出かけて、またひと騒ぎ。この前後から、後々まで続く日活との契約をめぐる紛争が起こりはじめる。過酷なスケジュール、企画への不満、他社出演への意欲など当然の裕次郎の不満に対して、会社側はこのドル箱スターの拘束を計る。あきらめた裕次郎は3月末に3年間の契約を更改。4月には北原との婚約を発表し、これで裕次郎人気もおしまいと言われたが、「あじさいの歌」「青年の樹」などが相変わらずのヒットを続け、それはちょうど、東映のオールスター時代劇と変わらぬ興行成績だった。同年12月2日、日活ホテルで北原三枝(本名・荒井まき子)と結婚、12月末封切の「闘牛に賭ける男」が配収3億円に迫り花を添えた。61年1月、志賀高原へスキーに行き、女性スキーヤーに衝突され右足を骨折。入院、療養ののち東京に戻ったのは7月末だった。再起第1作は9月封切の「あいつと私」で、待ち焦がれたファンが劇場に殺到し、配収4億円というブーム絶頂期の記録となる。続く「堂堂たる人生」「アラブの嵐」と3億円に迫る数字を残すが、61年を境に過熱気味のブームも徐々に冷え始め、62年の正月映画は小林旭、浅丘ルリ子の「渡り鳥北へ帰る」で、初めて裕次郎の牙城を脅かした。そうした背景とともに、裕次郎自身、年齢的にも肉体的にもアクションものに限界を感じるようになり、もっぱらメロドラマ、ムードアクションが中心のラインナップが組まれていった。62年は象徴的な年となり、「銀座の恋の物語」「憎いあンちくしょう」「花と竜」という佳作に連続出演し、これまでとはかなり違った役を意欲的にこなして、人気スターから演技派への脱皮を試みようとする動きが見られた。同年3月末で切れた日活との再契約にあたり、専属契約から1年ごとの本数契約へ変更。62年度は年間7本、他社出演をしない代わりに気乗りしない企画は拒否できることを条件とした。63年1月16日、石原プロモーションを設立。日活とは従来通り、他社出演はしないが自主製作及び石原プロと日活の共同製作作品は石原プロが主導権を握るという契約を交わす。自主活動の最初は日本テレビ『今晩は、裕次郎です』への出演、そして念願だったヨット太平洋横断の堀江謙一原作「太平洋ひとりぼっち」を石原プロ第1作として、市川崑監督により製作した。プロダクション経営に苦労しながら、以後はプロデューサーと俳優の二本立てで活動するようになる。68年には黒四ダム工事の実録を三船プロと共同で製作した熊井啓監督「黒部の太陽」を大ヒットさせ、スター・プロ時代の先陣を切る。その間、日活とは年間1本の出演契約となり、事実上フリーとなる。「ある兵士の賭け」70では興行的に失敗し、71年8月に日活がロマンポルノに路線変更。裕次郎はこの10月、胸部疾患で入院し、退院後は「影狩り」「影狩り・ほえろ大砲」72などを製作するが、大作路線の時代とは比較にならぬほどの低予算でのいわば下請製作となった。72年4月、日本テレビ『太陽にほえろ!』に出演、七曲署捜査一係の刑事たちを指揮する敏腕係長に扮し、初の本格的テレビ出演とあって高視聴率を獲得。この時の“ボス”が新しい世代の裕次郎への愛称となる。続いて石原プロ制作の日本テレビ『大都会』76~78に出演。主演は渡哲也で、自らはサポート役に徹した。こうして裕次郎の活動の中心はテレビに移っていったのである。その間、映画の主演俳優としては「赤いハンカチ」64、「嵐来たり去る」65あたりが限界で、その肥満した肉体と黒ずんだマスクには昔日の面影はなく、スターとして決定的な美しさに欠ける点で、以降は準主演、あるいは脇役へと後輩に役を譲るようになっていった。その一方、低音の魅力で売り出した歌は一向に衰えず、67年と75年にレコード大賞特別賞を受賞。70年代後半に巻き起こったカラオケ・ブームで裕次郎の歌が脚光を浴び、歌謡界で確固たる不動の位置を築く。さらに79年10月、テレビ朝日で『西部警察』がスタート。こちらも渡がメインで、裕次郎は部長役で助演する。この頃から病状が悪化し、81年4月、解離性大動脈瘤破裂のため入院。以後も入退院を繰り返し、87年5月に療養先のハワイから帰国後、7月17日に肝細胞癌で死去した。享年52歳。6年間の病気との凄絶な闘いの末の死であった。こうして戦後最大のスーパースターと言われた石原裕次郎は、我々の前から去っていった。その死は“裕次郎シンドローム”と言われるほど日本国民にショックを与え、日本中が泣いた。マスコミは次々と追悼番組を組み、男たちは夜のカラオケで裕次郎の歌を声を枯らして歌った。戦後の日本人に裕次郎が及ぼした影響の大きさを改めて感じさせずにはおかない巨大な足跡であった。