【異色作と極大スケールの娯楽作を社会派でまとめる職人監督】東京都生まれ。“純弥”の表記を用いたこともある。旧制中学1年時に終戦を迎え、価値観の大転換に直面した。東京大学文学部を経て1956年に東映東京撮影所に入社。テレビディレクターの佐藤東弥は実子である。東映東撮では、家城巳代治や今井正ほかの助監督を務める。63年、帝国陸軍の矛盾を暴いた「陸軍残虐物語」で監督デビュー、ブルーリボン新人賞を受賞した。任侠映画路線の時期は「組織暴力」シリーズや「ギャング対ギャング・赤と黒のブルース」「実録安藤組」シリーズなど現代やくざものの異色作を次々と手がける。68年に契約監督に、73年以降はフリーとして活動。75年、パニック映画ブームの勃興に際し監督した「新幹線大爆破」は海外でも高く評価され、続く「君よ憤怒の河を渉れ」(76)が中国で大ヒットを記録して以降、大作映画を主に任されるようになった。角川映画「人間の証明」(77)、「野性の証明」(78)でヒットメーカーの地位を揺るぎなきものにし、日中合作の「未完の大局」(82)はモントリオール映画祭グランプリ、「敦煌」(88)は日本アカデミー賞最優秀作品賞および監督賞を受賞している。【極地監督の異名を引き受けて】佐藤純彌が入社した頃の東映は時代劇全盛、監督昇進してからは任侠映画ブーム勃興と、京都撮影所が主流を担い続けるなか、常に傍流としての意欲作を強いられるかたちで作家性が培われた。そのあらわれのひとつが、和製西部劇「荒野の渡世人」(68)、劇画原作「ゴルゴ13」(73)などのキワモノめいた系譜で、実録の超能力もの「超能力者・未知への旅人」(94)を経た「北京原人」(97)で頂点を極めた。それでもどこかに、HIVに感染した女性が主人公の「私を抱いてそしてキスして」(92)に顕著な、社会派的視点が盛り込まれるのは、レッドパージによる東映移籍監督らの助監督をつとめた経験も影響しているだろうか。フリー以後の芯になったのは、映画化不可能と囁かれた大作題材の実現で、中国ロケの「空海」(84)や「敦煌」(88)、北極ロケの「植村直巳物語」(86)、ロシアが舞台の「おろしや国酔夢譚」(92)などはおよそ手堅くまとめられ、一時は“極地監督”の異名を取った。しかし実際に作品歴の核となるのは、おそらく青年期の体験が作家的モチーフとなったのであろうデビュー作以下「最後の特攻隊」(70)、「ルバング島の奇跡・陸軍中野学校」(74)、「未完の大局」と要所要所で作られる戦争・戦時下映画であり、その集大成的到達点が「男たちの大和/YAMATO」(05)であった。2019年2月9日都内の自宅で逝去。享年86歳。