【ホラーにこだわり、映画表現の境界線上を漂う】兵庫県の生まれ。立教大学在学中に自主映画活動を始め、万田邦敏らと制作集団パロディアス・ユニティを結成。同グループはのちに塩田明彦、青山真治らも輩出した。立教では映画論講座を受け持った蓮實重彦の薫陶を受け、8ミリ作品が自主映画コンテストPFFで入選を果たす。在学中より長谷川和彦「太陽を盗んだ男」の現場に参加し、卒業後は相米慎二「セーラー服と機関銃」の助監督を担当。1982年、長谷川や相米ほかの若手監督が集ったディレクターズ・カンパニーの設立に、唯一助監督のままで参加し、この製作によるピンク映画「神田川淫乱戦争」でデビューに至った。一部で賛美された第1作に続いてロマンポルノ作品を監督するが、これは改編を経て「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(85)として一般公開される。前2作を評価した伊丹十三製作のホラー大作「スウィートホーム」(89)や、低予算ホラー「地獄の警備員」(92)ののち、シナリオ『カリスマ』がサンダンス・インスティテュートのスカラシップを受賞、渡米研修に臨んだ。帰国後はビデオ向けの低予算作品「勝手にしやがれ!!」シリーズや「復讐」シリーズなど哀川翔とのコンビ作を量産し、97年に手がけた「CURE」が内外で大きく注目された。以後、「ニンゲン合格」「大いなる幻影」(99)、「アカルイミライ」(02)、「トウキョウソナタ」(08)などの多様なジャンルに挑戦し、一方で「カリスマ」(00)、「回路」(01)、「叫」(06)などのホラー系作品にも執着し続ける。列記したこれらはすべて世界三大映画祭のいずれかに出品・招待され、「回路」と「トウキョウソナタ」は受賞も果たした。【日本映画の辺境から世界へ】自主映画、立教ヌーヴェルヴァーグ、ピンク映画、ビデオ用映画と、スタジオ崩壊以後に始まる映画運動めいた潮流をことごとくなぞり、日本映画の傍流から独自の位置付けに至った。「スウィートホーム」以前ではゴダール等の影響をあらわにしていたが、「勝手にしやがれ!!」以降、与えられた条件の中で自分自身の映像だけを選び取る方法を採り、その文法や映像感度が世界的な新しい映像潮流と合致していく。自身はウェルメイドな“アメリカ映画”への志向を表明しつつ、その表現は慣例的な描写や語りを排し、時に難解・意味不明とも受け止められ、さらに賛辞の批評がまた抽象的となる傾向もあった。得意分野のホラーもいわゆる和製ホラーの諸作から一歩引いた位置で崇められ、結果的に「CURE」「トウキョウソナタ」といった“わかりやすい”難解さが一般からの評価を得るという構図になっている。