【文学性と社会性の香り漂う本道の純映画作家】佐賀県生まれ。就学児童期は長崎で過ごし、高校時代から8ミリ映画を撮り始める。福岡大学在学中に石井聰亙監督と出会い映画監督を志して上京、「狂い咲きサンダーロード」(80)、「爆烈都市/Burst City」(82)など石井作品の助監督をつとめた。この間の1980年、自主製作で8ミリ作品「東京白菜関K者」を監督し、ぴあフィルムフェスティバル(PFF)81に入選を果たす。その後、高橋伴明、大森一樹ほかの助監督もつとめ、86年に独立、CMや企業PRの分野でフリー・ディレクターとして活動を始めた。それらの作品が認められ89年にテレビ・ドキュメンタリーに進出。90年代は『ETV特集』や『驚きももの木20世紀』といったテレビ番組を中心に活躍し、ドラマ、ミュージックビデオを併せると演出作品は100本超になるという。2000年、WOWOWが企画製作する『J・MOVIE・WARS』の一本として「独立少年合唱団」を劇場映画初監督。これがベルリン映画祭のアルフレートバウアー賞(新人監督賞)を日本人で初めて受賞、日本公開後には監督協会新人賞はじめ国内の新人監督賞を総なめという高評価を得る。また05年の「いつか読書する日」はモントリオール世界映画祭審査員特別賞を受賞、前作と連続してキネマ旬報ベスト・テンにも入選を果たし、大型新進監督の地位を確たるものとした。その後、企画ものの中・短編を経た09年には「のんちゃんのり弁」を監督、さらにヌーヴェルヴァーグの名作「死刑台のエレベーター」の正式リメイク版(10年秋公開)を手がける。【静謐な文体のリアリズムと詩情】自主映画コンテスト・PFFの初期入選者であり、同年の入選者に黒沢清、松岡錠司、手塚真などがいる。ただし当時のPFFはグランプリを出すコンペ形式ではなく、入選が即映画監督の道に繋がるわけでもなかった。緒方も自主映画の先達・石井聰亙の知遇を得て助監督修業に入り、約10年間のテレビ演出ののち満を持しての映画進出という、現場叩き上げの監督に数えられよう。撮影所システム崩壊後の現場に学んだ監督らしく、スタジオよりはロケーション撮影を重視し、「独立少年合唱団」の北国の山間、「いつか読書する日」の長崎の坂の街、「のんちゃんのり弁」の東京下町といった情景を生かす作品づくりに腕をふるう。93年からコンビを組む(当時は放送作家であった)青木研次がオリジナル脚本を担当した前期2作品は殊に文芸性が高く、リアリズムと詩情があいまった静謐な文体が高く評価されている。また「独立少年合唱団」では全共闘活動家を、「いつか読書する日」では児童福祉や認知症を、と社会世相も積極的に物語へ取り込む傾向が見られた。原作ものを扱った「のんちゃんのり弁」では一転して軽喜劇を扱い、物語の重さよりも人間描写の面白さを印象に残す映画作りに挑んでいる。