神奈川県川崎市の生まれ。本名・静永操(旧姓・薄<すすき>)。4歳の時に父が戦死し、毛糸商を営む母の手で育てられる。1957年、横浜のフェリス女学院高等部を卒業。共立女子大学文芸学部の聴講生となる。当時すでに名取・花柳麗として日本舞踊を教えていた。60年、シカゴの大学で演劇を学ぼうと渡米を決意するが、兄が若くして急死したため断念。61年に大映京都撮影所演技研究所へ入所。同所で学んでいた時に市川雷蔵に推薦され、島崎藤村原作、市川崑監督の「破戒」62に初出演。被差別部落出身であるがゆえに苦悩する青年・丑松(雷蔵)の恋人・お志保という大役に抜擢される。芸名は永田雅一社長自ら原作者と役名からとって“藤村志保”と命名。新人らしい熱っぽい演技の中に日本女性の優しさと芯の強さを可憐に見せて、ホワイト・ブロンズ助演女優賞ほか同年の新人賞を独占。現代的な感覚の女優に脚光が集まった時代に、それだけ新鮮なデビューだった。続いて同年の雷蔵主演「斬る」で三隅研次監督の華麗な映像美のなかに、武家の女性の強さと忍従の美を見事に表現。山本薩夫監督「忍びの者」では野心と権謀にあやつられ、歴史の中で奔走する石川五右衛門(雷蔵)をひたすら愛し待ち続ける女のいじらしさ、悲しさを抑揚の効いた演技で表し、わずかデビュー1年の間に新人離れした才能を十二分に発揮する。以降、凛とした和服姿の似合う女優として大映時代劇にはなくてはならぬ存在となり、特に雷蔵との共演作では「眠狂四郎」「忍びの者」「若親分」の各シリーズ、「新選組始末記」63、「昨日消えた男」64、「大殺陣・雄呂血」66などで端正な美しさを見せる。当時の大映を雷蔵とともに支えた勝新太郎とも、「破れ傘長庵」「雑兵物語」「座頭市喧嘩旅」63、「駿河遊俠伝・賭場荒し」64などで共演。古風で気品あるイメージは、NHK大河ドラマ『太閤記』65の秀吉(緒形拳)の妻・ねね役でも存分に活かされ、お茶の間でも人気を高める。同年には演劇版の『太閤記』で初舞台。大河ドラマには以降も『三姉妹』67、『龍馬がゆく』68、『天と地と』69、『黄金の日日』78、『太平記』91、『八代将軍吉宗』95、『風林火山』07に出演して貫禄を示すことになる。一方で、大映時代から本数こそ少ないが現代劇でも次第に頭角を現し、山本薩夫監督「白い巨塔」65などに助演したのちの67年、三隅研次監督「古都憂愁・姉いもうと」で初主演を果たし、妹の恋人と関係してしまった姉を好演する。再び時代劇に戻った山本周五郎原作、三隅監督の「なみだ川」68では、江戸の下町に生きる気の良い兄妹思いのヒロイン・おしずをこまやかに演じ、代表作とする。田中徳三監督「怪談雪女郎」68では雪女の内に秘めた情熱を巧演。70年に結婚し、女性映画での大成が期待されるも71年に大映が倒産。一時は家庭を優先する時期を持つが演技への意欲は衰えず、テレビと舞台で再び活動を始める。『国盗り物語』『勝海舟』74など舞台作品においても時代劇で活躍。山本薩夫監督「不毛地帯」76で大映時代以来6年ぶりに映画に復帰すると、77年の山田洋次監督「男はつらいよ・寅次郎頑張れ!」では18代目のマドンナに選ばれ、寅次郎が恋する憂いのある女性をしっとりと好演する。デビュー以来保ち続けてきた魅力である、柔らかで上品な物腰の中に芯のしっかりした包容力を表せる演技力は撮影所システム終焉後の映画界でも必要とされ、明治の女性らしい折り目正しい姿を見せた澤井信一郎監督「わが愛の譜・滝廉太郎物語」93、相米慎二監督「あ、春」98の母親役と好助演が続く。後者で毎日映画コンクールの田中絹代賞を受賞。以降も、野村惠一監督「二人日和」05で長年連れ添った夫婦の情愛を、佐々部清監督「夕凪の街・桜の国」07では原爆によって家族を失った女性の万感の思いを演じて映画に厚みを与える。中西健二監督「花のあと」10では語りを担当し、本格時代劇女優の風格で作品を彩った。テレビドラマの出演作はほかに、NHK『花へんろ・風の昭和日記』85、『ひまわり』96、『柳橋慕情』00、『てるてる家族』03、『ねばる女』04、『だんだん』08、『マドンナ・ヴェルデ/娘のために産むこと』11、TBS『温泉へ行こう』99~05など多数。舞台は『父の詫び状』93、『恋ぶみ屋一葉』94、『冬の運動会』01などがあり、武原はんに師事した地唄舞の発表も定期的に行なう。秋元松代作『北越誌』05では瞽女に扮し、結城座の人形と共演する実験的な舞台を成功させた。83年に女優として初めて放送番組向上委員会に就任。85年、臓器移植の問題を取材した『脳死をこえて』を執筆し、読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞を受賞している。