【社会の悲劇と個の内面を見つめ続けた“国際賞男”】北海道小樽市の生まれ。1941年、早稲田大学文学部を卒業後、松竹に入社。戦時中は満州出征、宮古島守備隊を経て沖縄の米軍収容所で捕虜生活を送り、46年11月に復員する。松竹に復職後は主に木下惠介に師事し、「不死鳥」(47)から「日本の悲劇」(53)まで助監督を務めて木下門下の優等生と言われた。52年の中編「息子の青春」で監督昇進。戦中の空白を含めて10年間の助監督生活を送ったが、青春の瑞々しさを失わず、続く「まごころ」(53)の美しい叙情性とも併せて、注目の新人として名を馳せた。同じ53年には安部公房原作の「壁あつき部屋」を第3作として手がけるが、無実の罪でBC級戦犯として投獄された戦争犠牲者の姿を描いた同作は、対米感情への配慮から松竹が公開を見合わせ、56年になってようやく封切られる。のちの作品に見られる悲劇性と社会性がここで早くも提示されていたことは、小林の作風を語る上で興味深い。59年から61年にかけては、五味川純平の大河小説が原作の「人間の條件」を、全6部・9時間38分の超大作として映画化。満州に応召されたインテリの主人公が戦争と軍隊の過酷な実態に直面する姿を通して、戦争の不条理を鋭く突いて国内外で高い評価を集めた。これを機に小林の名は世界に轟き、初の時代劇となった「切腹」(62)と小泉八雲原作のオムニバス「怪談」(64)では、ともにカンヌ国際映画祭の審査員特別賞を受賞。65年に松竹を退社してフリーとなり、67年の時代劇「上意討ち・拝領妻始末」ではヴェネチア国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞するなど“国際賞男”の異名をとった。アウトローたちが若者の純愛に手を貸す「いのちぼうにふろう」(71)、連続テレビドラマ8時間を3時間の劇場用に再編集した「化石」(75)、そしてイラン・ロケの大作「燃える秋」(78)を撮る。【妥協を許さぬ完全主義者】さまざまな手法で戦争否定の主題を追究し続けてきた小林の集大成とも言えるのが、83年公開のドキュメンタリー「東京裁判」で、これは日本の戦争責任を裁くために46年から2年半に渡って開かれた極東国際軍事裁判の模様を収めた米国防省保管の膨大なフィルムと内外のニュース映像とを、実に4年がかりで4時間37分に編集した労作である。日本の侵略の事実を冷徹な視点で検証するとともに、戦勝国による戦争裁判の空虚さも訴え、その悲劇性を改めて浮き彫りにした。遺作となった「食卓のない家」(85)は、連合赤軍による“あさま山荘事件”を背景に敷いた社会派のホームドラマで、最期まで社会の悲劇と個の葛藤を見つめ続けた名匠の面目躍如。長年に渡って井上靖原作『敦煌』の映画化企画を温めていたが果たせず、晩年は妥協を許さぬ“完全主義”も災いしてか、映画製作のチャンスが狭まったことも残念だった。