【女優を育てる、寡作の巨匠】兵庫県相生市生まれ。母は出産時に亡くなり、母の妹が父の後妻となって桐郎を育てる。その事実を子供時代は知らなかったという。旧制姫路高校三年の時、父が原因不明の自殺。母の郷里・名古屋市に移り、名古屋大学文学部仏文科に進む。卒業した1954年に松竹の助監督試験を受け、筆記では高得点だったが身体検査で落ちる。試験官だった鈴木清順の勧めで日活の試験を受けてまた落ちるが、一緒に受験した山田洋次が松竹補欠合格に応じて松竹に入社したため、日活に入社。川島雄三の現場で働き、チーフの今村昌平が監督昇進すると61年の「豚と軍艦」までチーフを務める。62年、今村との共同脚本で監督第1作「キューポラのある街」を監督。キネマ旬報ベスト・テン第2位に入り、日本監督協会新人賞を受賞する大型デビューを果たす。吉永小百合は健気で強いジュン役の好演で女優として新たな境地を拓き、さらに熱烈な人気を得る。63年の「非行少女」では和泉雅子を演技開眼させ、モスクワ映画祭金賞受賞。華々しいキャリアのスタートとなったが第三作の企画を熟考、完全主義を貫き、遠藤周作原作「私が棄てた女」を69年に完成させるまで5年余をかける。重い内容を会社が拒否し、一旦はお蔵入りが決まるが、試写を見た映画ジャーナリストが強く支援して公開された。キネ旬ベスト・テン第2位。このあと日活を退社、再び6年間、雌伏の期間を過ごす。酒豪振りなどの逸話で知られるようになるが、社会と人間をじっくり描けるテーマを待ち、一本毎に粘る姿勢は敬意の対象になり、新作が強く待たれる映画作家となる。五木寛之のベストセラー小説を映画化した東宝の「青春の門」(75)、「青春の門・自立篇」(76)が大ヒット。オーディションで見出した新人女優が大竹しのぶで、〈女優を育てる名手〉健在と評判になる。また、同作の助監督・小栗康平が「泥の河」(81)でデビューするまで、公私にわたってアドバイスを送る。【父母への思いを映画に刻み込む】テレビドラマの演出には消極的だったが、今村が企画した『飢餓海峡』(78)では全8話中5話を演出。ドキュメンタリー番組も数本手掛ける。79年、国際児童年記念アニメーション「龍の子太郎」を監督。母の声を演じたのは吉永小百合。竜になった母を慕う主人公の少年に、浦山の自己投影があったといわれる。80年の「太陽の子・てだのふあ」は初の独立プロ作品。撮影中に義母が亡くなる。83年には、旧日活から数えて創立70周年記念と銘打ったにっかつロマンポルノ「暗室」を監督。この間にもドラマを演出して徐々に活動のピッチを上げ、85年、吉永のヒットドラマの映画化「夢千代日記」(85)を東映で撮る。自作脚本『人間の砂漠』の準備を進めていたが同年10月、鈴木清順の還暦祝いに出席した後、急性心不全で死去。