1948年早稲田大学商学部卒業後、松竹大船撮影所に入所、脚本部に入る。養成所での研修中に師事した新藤兼人の勧めで受けた助監督試験に合格。渋谷実、川島雄三、小津安二郎監督などにつく。1955年に京都映画作品「父と子と母と」を監督するが、正式監督デビュー作は1958年の松竹作品「野を駈ける少女」。話題作問題作を発表後フリーに。大阪万博ガスパビリオン映像監督などを担当する。1971年に独立プロダクション「蛮友社」を設立。同社から『小津安二郎・人と仕事』を出版する。1986年には小津監督のドキュメンタリー「生きてはみたけれど・小津安二郎伝」を監督。2011年6月26日肺気腫のため死去。