【期待される寡作な小市民エンタテインメント作家】“すおう”と呼ばれがちだが正しくは“すお”。東京都に生まれ、川崎で育つ。浪人時代に名画座で映画鑑賞に浸り、立教大学在学中は蓮實重彦の映画論講座に刺激を受ける。黒沢清らのパロディアス・ユニティとも親交を結んで自主製作を始め、高橋伴明のピンク映画現場に飛び込んだ。卒業後もピンク映画の助監督を務め、1982年には磯村一路ら4人と制作集団ユニット5を結成。脚本や助監督で研鑽を積み、84年のピンク映画「変態家族・兄貴の嫁さん」で監督デビューを果たす。97年に自作「Shallweダンス?」ヒロインの草刈民代と結婚。映画音楽を手がける周防義和は従兄。敬愛する小津安二郎の作法を踏襲し「晩春」の続編的な物語をピンク映画式に紡いだ監督第1作は、蓮實ほかの絶大な支持を受け一躍時の人となった。同じく小津スタイルのテレビドラマ『サラリーマン教室・係長は楽しいな』や、伊丹十三「マルサの女」「マルサの女2」のメイキングビデオを構成・演出したのち、ドラマに注目したプロデューサー桝井省志のもとで一般映画「ファンシイダンス」(89)を監督。続く「シコふんじゃった。」(92)がキネマ旬報ベスト・テン1位をはじめ各所で絶賛され、人気監督に仲間入りする。93年に桝井・磯村らとアルタミラピクチャーズを設立、ここで製作した「Shallweダンス?」(96)も前作を上回る高評価を得た。同作は米国での興行にも成功し、2004年にハリウッドでリメイクされる。その後は監督活動にブランクを生じたものの、07年に「それでもボクはやってない」を発表、やはり絶賛を得ている。08年、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。【同型式を極める】デビュー当時は蓮實の影響もあらわに、小津の手法・物語の引用によって、結果的に成瀬巳喜男「山の音」のピンク版が出来上がり、映画史的記憶を作家性に直結させる監督と見なされた。しかし伊丹十三とのある種の師弟関係により、観客と向き合いつつ作家性を潜り込ませる方向へ進む。「ファンシイダンス」以下の3作はいずれもある分野の実情を詳らかに紹介しながら明るく楽しく、時に切なく人間模様を描くもので、これは一面で伊丹映画を継承するものだった。一作ごとにその手腕は研ぎ澄まされ、小津スタイルも巧妙な換骨奪胎を経て周防スタイルに昇華する。そこで描かれる人間はほんのすこし特殊な状況下にある善良な小市民であり、その大衆目線も一貫した特徴。伊丹が亡くなり周防が沈黙した間にこの伊丹―周防ラインは「がんばっていきまっしょい」(磁村一路監督)、「ウォーターボーイズ」(矢口靖史監督)ほかに引き継がれ、日本映画の定番スタイルとなった。裁判制度に疑問を呈した「それでもボクはやってない」も、先述のスタイルを踏襲した社会派であり、負け戦を捉える点までは同じだが、満面のハッピーエンドに終わらないところに新境地を見せる。寡作とはいえ、監督作が3本連続でキネ旬ベスト・テン1位というのも前例がない。