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山下耕作

  • Kosaku Yamashita
  • 監督
本名
出身地 鹿児島県阿久根市琴平町
生年月日 1930/01/10
没年月日 1998/12/06

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略歴

【任侠映画の美学を花開かせた名監督】鹿児島県生まれ。熊本陸軍幼年学校在学中に終戦。京都大学法学部卒業後、1952年、東映京都撮影所入社。同期に工藤栄一がいた。当初は事務方の仕事につくが55年より現場に。内出好吉、小沢茂弘など多くの監督の作品で助監督を務め、特に内田吐夢を尊敬した。当時からの愛称“将軍”の由来は陸軍大将・山下泰文からとも、怜悧で寡黙な態度が周囲に一目置かれていたからとも言われる。61年、内田の大作「宮本武蔵」のチーフと並行しつつ、中編の「若殿千両肌」と「新黄金孔雀城・七人の騎士」(3部作)を撮る。63年、初の本格的監督作となる中村錦之助主演の股旅物「関の彌太ッぺ」が注目されるも、既に東映の時代劇人気は頭打ち状態にあり、出世作を送り出すと同時に新しい鉱脈である任侠路線への適応を迫られる。時代劇への愛着から当初は消極的だったが、やくざ映画は時代劇の変奏、同じ世界を描けると思い至り、「大喧嘩」(64)、「花と竜」(65)などを経た66年、鶴田浩二、北島三郎の「兄弟仁義」を監督。「日本侠客伝」「昭和残侠伝」に続く東映の看板シリーズになる。プロデューサー俊藤浩滋(藤純子の父)が推進した、主題歌が流れるなか主人公が殴り込みに向かうパターンを格調高く、甘美に演出してみせ、任侠路線きっての人気監督となる。以後の数年は年間に5本から6本以上を量産。その中から、若山富三郎の愛嬌と純情を活かした「極道」(68)、女剣戟の伝統を再生させた藤純子の「緋牡丹博徒」(68)が生まれ、ともにシリーズ化される。この頃、三島由紀夫が「博奕打ち・総長賭博」(68)を絶賛した批評を発表。まだ芸術映画と大衆娯楽品に確固とした線引きがあった時代だったため、知識層に刺激を与える。【時代劇でも情と掟のドラマを追求】一世を風靡した任侠路線だったが、美化されたやくざ像にフラストレーションを溜めた深作欣二らが70年代から台頭。トップ監督の座は譲りつつ実録路線に自分の型で挑み、「山口組三代目」(73)、「山口組外伝・九州進攻作戦」(74)などをヒットさせる。この頃より『桃太郎侍』『必殺』『遠山の金さん』などテレビシリーズの仕事が増え、もともと思い入れのある時代劇に腕を振るう。以降、80年代は時代劇大作「徳川一族の崩壊」(80)、初の外部プロ作品「戒厳令の夜」(80)、任侠映画の再生「修羅の群れ」(84)、荻原健一に依頼された「竜馬を斬った男」(87)などを監督。90年代に入ってもテレビの時代劇スペシャル、「極道の妻たち」シリーズ、教育映画と休むことなく手掛ける。大ベテランとなっても状況に応じ、98年の死去まで情と掟の相克の世界を求め続けた。

キネマ旬報の記事

1974年5月上旬号

グラビア:山下耕作監督 「山口組外伝・九州進攻作戦」

1973年8月下旬号

グラビア:高倉健/山下耕作の「山口組三代目」

1972年4月上旬春の特別号

世界の映画作家:山下耕作監督その人間観と映画観を語る

1971年8月10日号増刊 任侠藤純子おんなの詩

緋牡丹博徒シリーズ全7作:緋牡丹博徒

緋牡丹博徒シリーズ全7作:緋牡丹博徒・鉄火場列伝

1971年3月20日号増刊 任侠映画大全集

任侠映画を演出する男たちに聞く:山下耕作 人生の裏しか歩けない男と女

1970年12月上旬号

日本映画監督のいる風景:山下耕作の「日本侠客伝・昇り龍」

1965年6月上旬号

第一線監督はいまこう考える:近況報告特集