【シリアス、コメディ両面で才能が光るピンク出身の気鋭】富山県西砺波郡生まれ。県立高岡商業高校を卒業後に上京し、20歳の時に知人の紹介で向井寛が主宰する獅子プロダクションに入社。ピンク映画の助監督として向井のほか山本晋也、稲尾実、梅沢薫らについたのち、1981年、獅子プロ製作の「痴漢女教師」で監督デビューする。以後、新東宝の看板コメディ「痴漢電車」シリーズを中心にピンク映画を多数演出。滝田の「痴漢電車」は、満州の張作霖爆殺事件がモチーフの「下着検札」(84)、グリコ・森永事件を扱った「聖子のお尻」(85)、写真週刊誌ブームを皮肉った「あと奥まで1cm」(85)など奇想天外な着想のミステリーコメディが大半を占め、ピンク映画ファンの度肝を抜いた。一方、83年の「連続暴姦」、84年の「真昼の切り裂き魔」は一転してシリアスタッチのサスペンスで、この2作によりピンク映画の祭典・ズームアップ映画祭の作品賞と監督賞を連続受賞している。85年に獅子プロを退社。この頃すでにピンク映画界の新鋭・滝田の名は広く映画ファンの注目を集めていたが、それが決定的となったのが初の一般映画進出となった「コミック雑誌なんかいらない!」(86)である。内田裕也扮する芸能レポーターを主人公に、1985年の事件・事故や世相を大胆に物語に取り込んで、時代を鋭く斬った問題作。ピンク時代に培ったシリアス、コメディ両面の才能をここで一気に開花させ、それは滝田がこの後、一般映画を次々と連作していく過程においても常に発揮されていった。【米アカデミー賞受賞の快挙】88年には、お金がテーマのシニカルなコメディ「木村家の人びと」が単館系でスマッシュヒットとなった。以後もこの時の脚本家・一色伸幸と組んで、「病院へ行こう」2部作(90~92)、「僕らはみんな生きている」(93)、「熱帯楽園倶楽部」(94)と快作コメディを連発。大沢在昌原作のサスペンス「眠らない街・新宿鮫」(93)や東野圭吾原作の「秘密」(99)、平安の京が舞台のVFXアクション「陰陽師」(01)「陰陽師II」(03)、急逝した相米慎二の企画を引き継いだ時代劇「壬生義士伝」(03)など様々なジャンルの作品で堅実な手腕をふるい続けている。さらにその評価は08年、納棺師という職業にスポットを当てたヒューマンドラマ「おくりびと」で頂点に達した。国内でもすでに各映画賞を総なめにしてロングランヒットとなっていたが、年が明けた2009年になって、米アカデミー賞の外国語映画賞を見事受賞。滝田は一躍時の人となり、その演出手腕が改めて注目を集めている。