【CM演出家から転身、低迷する90年代日本映画界を支えた】東京都出身。画家を志して東京芸術大学を受験するが、4浪して断念。第1次自主映画ブームの最中にはいくつかの美術系学校で映像を学び、8ミリや16ミリの作品をコンテストへ出品した。1975年にCM製作会社に入社、およそ400本のCM演出を手がけたのち、81年に独立する。『禁煙パイポ』『タンスにゴン』など話題のCMを次々と手がけ、85年にはカンヌ国際広告映画祭金賞を受賞。87年に製作会社からの依頼を受け、「BU・SU」で劇場用映画に進出。CMの仕事と並行して映画制作を続けるが、2008年、脳内出血のため59歳で逝去した。監督第1作の「BU・SU」はキネマ旬報ベスト・テン第8位、読者選出第2位の評価を受ける。その後も「つぐみ」(90)は毎日映画コンクールと報知映画賞それぞれで監督賞を受賞、「病院で死ぬということ」(93)も毎日映画コンクール監督賞のほか海外の映画祭でも好評に迎えられるなど、着実に新進監督の地位を築いていった。95年には「東京兄妹」がベルリン国際映画祭の国際批評家連盟賞、97年の「東京夜曲」ではモントリオール世界映画祭で日本人として初めて最優秀監督賞を受賞し、世界的にも名を知られるようになる。2000年代に入っても「ざわざわ下北沢」(00)、「東京マリーゴールド」(01)、「竜馬の妻とその夫と愛人」(02)とほぼ年一本のペースで作品を発表。05年には「トニー滝谷」(04)でロカルノ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞し健在ぶりを示したが、自主製作の「buyasuit/スーツを買う」(08)が遺作となった。【定点観測的な視点と女優の育成】「BU・SU」が公開された87年は日本映画の低迷期にあたり、異業種監督を含む多数の新人監督がデビューしている。その中でも市川準は頭角抜きん出た存在として期待された。「佳世さん」(91)と「病院で死ぬということ」で、固定カメラと引きの構図による定点観測的な映像表現を完成、以後もドキュメンタリーの風味を保ちつつ、登場人物を突き放さない温かみのあるドラマ作りを持ち味とした。自身で“自分なりの映画作法が見えてきた”と語る「東京兄妹」は、前述の持ち味が生きた「トキワ荘の青春」(96)、「東京夜曲」と合わせて“東京三部作”と呼ばれ、90年代の日本映画を刺激し続けた。この時期は小津安二郎への嗜好も指摘されている。また女優を中心に据えた作品が多いことも特徴のひとつで、富田靖子に始まり、牧瀬里穂、粟田麗、池脇千鶴、田中麗奈、宮沢りえ、成海璃子など成長期の女優からナチュラルな魅力を引き出し、作品の雰囲気作りを助けた。