早稲田大学政経学部2年中退。64年、文学座付属演劇研究所に入り65年卒業と同時に劇団NLTに入団。65年11月からのフジテレビの昼のメロドラマ『乱れる』に南田洋子の相手役として抜擢され、梶山仁の芸名でまず茶の間にデビューする。66年、番組終了と同時に中山仁と改名、化粧品会社のポスターに顔を出し、売り出しのきっかけをつかみ、同年4月の東宝「ひき逃げ」(成瀬巳喜男監督)に脇役で映画初出演。この年はまた『リュイ・ブラス』で舞台にもデビューする。同年末、五所平之助監督に抜擢され、松竹「宴」(67)に映画出演2本目ながら主役の座を獲得、人妻(岩下志麻)の愛をしりぞけ、昭和維新、いわゆる二・二六事件を首謀して挫折、処刑される青年将校を、生硬な演技のままに演じ、この映画の原作者・利根川裕が主人公に付与した、真に愛し得る者は現世に存在し得ないという哲学のもとに愛人の死さえ望む、そうした性格をじゅうぶんに表現し得たとはいえなかったが、正義を信じ、ひたむきに己が道を突き進む、いちずな硬派青年像は、このとき、きわだって新鮮な印象をあたえ、ぶっきらぼうだが粗野ではなく、硬派ではあるが夢みがちな甘さも漂わせた、そんな新鮮さが買われ、この柄にそった純粋な若者タイプで一気に売り出してゆく。すなわち67年は「宴」のあと山田洋次監督に起用され、パニョルの『ファニー』の翻案「愛の讃歌」にマリウス役で倍賞千恵子と共演、ここでは夢みがちでいちずな青年を好演。続く中村登監督「智恵子抄」では岩下志麻の弟役で助演だったが、次ぎの東宝初出演、須川栄三監督「颱風とざくろ」では逞しい大学庭球部のコーチで冬山で遭難死する青年で星由里子と共演、持ち味を発揮。再び松竹での井上梅次監督「激流」では生花宗家の娘にふんした岩下志麻と劇団NLT同期の寺田史の2人の相手役をつとめ、ついで斎藤耕一監督が自ら独立プロをひきいての第1作「囁きのジョー」に主演、ブラジル渡航を夢みながら恋人に身体を売らせ、殺し屋として警察に追われる虚無的な青年を甘さをたたえながら好演、代表作とし、さらに市村泰一監督の松竹「花の宴」では香山美子を共演者に滝廉太郎を演じ、これらの華々しい活躍で67年度製作者協会新人賞を手中にするが、同年は舞台でも6月に『鹿鳴館』、10月に『朱雀家の滅亡』という三島由紀夫劇に主演、注目される。68年以後、映画は松竹で長谷和夫監督「嵐に立つ」に主演、斎藤の「思い出の指輪」にヴィレッジ・シンガーズと共演、中村登の「わが闘争」に佐久間良子と共演、東宝で岩内克己監督「砂の香り」(68)に浜美枝と共演、松竹で中村の「日も月も」(69)に岩下、大空真弓と共演するが、このころから彼のもつ新鮮さが急速に薄れてゆくとともに準主演から客演、助演へと回るようになり、斎藤の「愛するあした」「海はふりむかない」(69)、東宝で「死ぬにはまだ早い」(69)、「サインはV」(70)に出演したあとは出演本数も急速に減って72年「約束」、74年「伊豆の踊子」、76年「超高層ホテル殺人事件」「バカ政ホラ政トッパ政」、77年「陰獣」に出演するのみで仕事の主力をテレビに移し、その近作にTBS『七人の刑事』(78)、テレビ朝日『流氷の詩』(79)、NHK『草燃える』(79)などがある。68年、寺田史(寺田農の妹)と結婚するとともに三島由紀夫の劇団浪曼劇場に転じ、70年11月の三島の死とともに劇団解散、以後はフリーとなっている。2子あり。