【モダンな奇想の冒険を続けた真の異才】東京都出身。早稲田実業では劣等生で、3年で中退。親のものを質に入れては浅草に通う、遊興と放蕩の3年間を過ごす。知人の紹介で東宝に入社。徴用され、満州で爆撃用航空写真作成に関わっている時に終戦を迎える。1947年、新東宝の創立から助監督として参加し、渡辺邦男、成瀬巳喜男、清水宏らの現場につく。57年、「リングの王者・栄光の世界」で監督デビュー。以降、国産SF映画のパイオニア「鋼鉄の巨人(スーパー・ジャイアンツ)」シリーズ(57―58)、〈ライン・シリーズ〉とも呼ばれる一連の現代風俗アクション「黒線地帯」「黄線地帯」(60)などを連発し、大胆な発想と才気煥発な演出振りが徐々に注目される。61年、新東宝倒産とほぼ同時に東映と契約。ニュー東映での第1作「花と嵐とギャング」から当時全盛の日活アクションに拮抗するモダンなセンス、シャープな編集感覚を持ち込み、東映アクションの流れを変えた。ニュー東映打ち切り後も東映を拠点にし、売り出し中だった高倉健の明るい魅力を活かした和製ギャング映画を次々と生む。65年、ギャング映画のモダニズムにやくざ映画のエッセンスを加味した「網走番外地」が大ヒット。高倉健を一躍スターダムに押し上げるドル箱シリーズとなった。シリーズ第7作「大雪原の対決」では66年の興行ベストテン第1位を記録している。映画界の斜陽化が進みピンク路線が決まると、「やるからには思い切ってやろう」(本人談)の精神でいち早く「徳川女刑罰史」(68)を始めとする、いわゆる〈異常性愛路線〉を開拓、これも大ヒットさせる。70年代に入っても千葉真一のカラテ・コメディ「直撃地獄拳・大逆転」(74)などを手掛け、東映の娯楽映画を支え続けた。【ドル箱監督からキング・オブ・カルトへ】79年の「暴力戦士」を最後に劇場映画から遠ざかり、80年代は2時間サスペンスなどテレビの演出が主になる。91年、古巣・東映のVシネマ(オリジナル・ビデオ)『ザ・ヒットマン/血はバラの匂い』を監督。この前後から名画座での旧作上映が人気を集め始め、インタビュー本が出版されるなどして新たなファン層が誕生。石井輝男復活を期待する機運が急速に高まる。その熱を受けて93年、14年振りの劇場用映画「つげ義春ワールド・ゲンセンカン主人」を発表。大きな話題を集めた。以降も、最盛期では考えられない低予算、スタッフは経験の浅い孫のような世代という条件を逆手に取り、「地獄」(99)、「盲獣VS一寸法師」(01)まで、映画の見世物的な魔性をとことん追求する未踏の挑戦を続けた。