奈良県奈良市の生まれ。本名・戸田恭子。のち靖子、馨子に改名。四人姉妹の次女として生まれ、1943 年、普連土女学校を1年で中退して宝塚歌劇団の養成所である宝塚音楽舞踊学校(現・宝塚音楽学校)に入学するが、戦局悪化のため勤労動員で工場へ働きに出る。45 年3月卒業、宝塚歌劇団に入団。芸名の新珠は母と姉が考え、三千代は愛読書の夏目漱石『それから』のヒロインの名からとった。46 年、『グラナダの薔薇』で初舞台。48 年『レインボーの歌』のペギー役が高く評価されて以来、宝塚の代表的な娘役スターとして活躍。八千草薫、有馬稲子とともに“ 三人娘” と称され人気を博する。宝塚時代の代表作は『ハムレット』49、『ジャワの踊り子』52 など。51 年、滝沢英輔監督の時代劇「平安群盗伝・袴だれ保輔」で映画初出演。池部良の主人公に捨てられた後に権力者の妻となる、デビュー作にして複雑な内面が要求される役どころだった。53 年には『ジャワの踊り子』を見た成瀬巳喜男監督から「妻」の高峰三枝子の妹役に起用される。同じく53 年、帝劇の現代劇『縮図』に出演。宝塚在籍のまま外の舞台を踏むのは、越路吹雪以来2人目の異例の抜擢だった。外部出演が増えて自身の意欲も高まり、55 年2月、宝塚を退団。品の良い美貌と演技力を求める映画会社各社から獲得の声が上がるなか、3月、前年に製作を再開して文芸路線に主軸を置いていた日活を選ぶ。専属契約第1作は4月公開の「花のゆくえ」。以来立て続けに作品を重ね、月丘夢路や北原三枝らと並ぶ初期日活の看板女優となる。この年の主要作は夏目漱石原作・市川崑監督「こころ」の先生(森雅之)の妻役。貞淑な女性が秘める謎めいた部分を鋭く表現した。翌56 年は監督にも共演者にも恵まれた映画女優としての最初のピークで、川島雄三監督「風船」の三橋達也の愛人役、井上梅次監督「死の十字路」の三国連太郎のやはり愛人役、久松静児監督「神阪四郎の犯罪」の被告・森繁久彌の妻役、田坂具隆監督「乳母車」の石原裕次郎の姉役など、それぞれ重要な役で出演。特に川島と再度組んだ「洲崎パラダイス・赤信号」では、元遊郭の娼妓に扮する。イメージダウンにつながりかねない役柄への挑戦だったが、三橋達也のダメ男を捨てようにも捨てきれない蓮っ葉な玄人女のおかしさ、やるせなさを演じ切り、絶賛される。また、この年には『智恵子抄』でテレビドラマ初出演。当時はまだ映画スターの多くが問題外としていたテレビに、早くから可能性を見出す。女性らしいしとやかな優しさと狡さ、怖さの両面を演じられる女優と評価が高まった57 年、日活が裕次郎ブームの到来で男性アクション中心にシフトしたこともあり、契約満了を機に東宝へ移籍。この年の堀川弘通監督「女殺し油地獄」を始めとして、58 年は成瀬巳喜男監督「鰯雲」、岡本喜八監督のデビュー作「結婚のすべて」、市川崑監督の大映作品「炎上」、59 年には橋本忍監督「私は貝になりたい」と秀作・話題作に着実に出演。この時期の代表作は、小林正樹監督が五味川純平の大ベストセラー小説を映画化した松竹作品「人間の條件」59-61 での主人公・梶の妻・美千子役。出征した梶(仲代達矢)の生還をひたむきに願う熱演で“ 永遠の女性” とまで呼ばれた美千子の像に血肉を与え、全6部作、総尺9時間30 分余を通じて日本人の戦争責任を問う超大作の清涼と哀切の面を担う。「第1・2部」の演技で59 年度キネマ旬報女優賞、ブルーリボン助演女優賞を受賞。「人間の條件」出演期間だった60 年にも豊田四郎監督「 東綺譚」、川島雄三監督「『赤坂の姉妹』より・夜の肌」などで好演を見せ、舞台にも『オセロー』で宝塚退団以来5年ぶりに復帰する。映画ではもともと単独主演の作品は少なく、62 年の久松静児監督「愛のうず潮」、五所平之助監督「かあちゃん結婚しろよ」で主演をつとめた後は助演が主になる。しかし宝塚映画が松竹の巨匠・小津安二郎を招いて製作した「小早川家の秋」61 など、60 年代に入ってからも各社が力を入れて製作した大作、文芸作に重要な役で出演。岡本喜八監督「江分利満氏の優雅な生活」63、「侍」65、「大菩薩峠」66、「日本のいちばん長い日」67。小林正樹監督「怪談」64、「日本の青春」68。田坂具隆監督「冷飯とおさんとちゃん」65 など。また、鈴木英夫監督「黒い画集第二話・寒流」61、堀川弘通監督「悪の紋章」64、成瀬巳喜男監督「女の中にいる他人」66 といったミステリーでは悪女を演じ、硬質の魅力を発揮する。高いプロ意識の持ち主で時には監督とのディスカッションも辞さない一面があったが、確固とした作風を持つ監督からの再起用が目立つのは女優としての特長であり、勲章ともいえる。一方で東宝の定番だったサラリーマン喜劇、森繁久彌主演「社長」シリーズにも多く出演。色気たっぷりに社長を迷わせるバーのマダムや芸者を肩肘張らずに演じ、自身が「本当は明るくてのんびり」と語った性格の一端を垣間見せる。映画の斜陽化で次第に作品が減りつつあった66 年、コンスタントに出演していたテレビで大ヒットが生まれる。NET(現・テレビ朝日)の連続ドラマ『氷点』で、わが子を殺した誘拐犯の娘(内藤洋子)を養子として育てなくてはならなくなった病院長夫人の愛憎を壮絶に演じ、最終回が視聴率42.7%を記録する一大ブームを呼ぶ。内藤洋子とは同年、恩地日出夫監督「あこがれ」でも共演している。もうひとつのドラマの代表作は70 年放送開始の日本テレビ『細うで繁盛記』(花登筐原作)。伊豆の弱小旅館・山水館を兄嫁のいびりなどに耐えながら大きくしていくヒロインを演じ、こちらも回によっては40%を越える高視聴率を記録。『続』『新』が作られる人気シリーズとする。この2本で国民的人気を得てからはドラマと舞台が活動の中心となるが、70 年には森崎東監督「男はつらいよ・フーテンの寅」に出演。“ 寅さん” がまだ国民的シリーズに化ける前、人気女優に出演を渋られていた時期の3代目マドンナだった。映画での最後の大役は「人間革命」73 と「続人間革命」76 の主人公の妻役。両作を監督した舛田利雄は日活在籍時代、「こころ」などの助監督だった。映画から離れて以降も、和服の似合う日本の女優らしい女優のイメージをNHK 大河ドラマ『新・平家物語』72 や『風と雲と虹と』76、80 年代のフジ『平岩弓枝ドラマシリーズ』などで堅持。80 年には谷崎潤一郎原作の日本テレビ『細雪』に出演、舞台版でも次女・幸子役が代表作になる。90 年、舞台版『細雪』の幸子、『真夜中の招待状』のエドワード夫人の役の演技で第16 回菊田一夫演劇賞を受賞。94 年12月、『女たちの忠臣蔵』出演中に心臓疾患で緊急入院。初めて舞台に穴をあけたことに強い責任を感じ、体調の問題もあって大きな仕事は断るようになる。単発の仕事は断続的に続け、00 年には『ハロルドとモード』朗読の舞台を成功させていたが、01 年3月、腰椎椎間板ヘルニア手術の心臓への負担から意識が戻らなくなり、一週間後、心不全で死去。生涯を独身で通した。