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スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム
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大勢の皆さんが絶賛しているので、それに異論をはさむつもりはなく、自分も自分なりに感動した。感動はしたのだが、果たして自分の感動の位置はみなさんと大きくずれているような気がする。 (以下は読むと不愉快になるので読まないでください) スパイダーマンシリーズの敵役とパーカーの関係はそれなりによくわかっているつもりだ。善と悪と対峙させ正義を貫き市民を守る。勧善懲悪でありながら、決してもともと強くない高校生が大きな力を獲得することで、自らの弱さを克服してゆく、というドラマだ。 トビー・マグワイアがスパイダーマンとして現れた最初のシリーズの衝撃は大きかった。ニューヨークの摩天楼をスパイダーマン目線で飛び回るジェットコースター感覚が最初の衝撃。スパイダーマンシリーズがその後二匹目のドジョウを狙って高額の投資をするに値する結果となったのは、サム・ライミのあの映画こそが原点だ。心から感動した。 そしてこれらの大作が日本人の我々にも大きな感動をもたらす理由はソニーである。かねてより日本の企業としてテクノロジーの先端を走ってきたソニーは忘れもしないベータ・VHS戦争に敗れ、その敗因を「コンテンツ不足」に求めコロンビア映画を買収する。その後のソニーのことは語るまでもないが、これらの大作にソニーの文字がコロンビア映画の前に大きく浮かび上がる感動を我々1960年代生まれは強く感じるのだ。 しかし、 残念ながら映画は凡庸であった。残念だ。劇場で皆さんが感動したようには感動できなかった。 全く時代の異なる3シリーズを時空を超えて集結させる、という想像を絶する展開は予告編で知りうることで、トビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドが出ることもうっすらと想像できた。それでも彼らがIMAXの大画面に登場したときは声がでるとほど感動はした。しかし特にトビー・マグワイアが随分年老いた印象だったことと、強引なドラマの展開にはあまり迎合することもできず、一定の感動はあったものの、みなさんが大騒ぎするほどの感動には及ばなかった。 その理由はやはりアベンジャーズだろうと思う。DCMとソニーが組む、という夢のような進展は誰も予想できず、これで新たなアベンジャーズとしてスパイダーマン像が確立できたゆえに、市場が望む以上の大作を作るに至ったものなのだが、『エンドゲーム』にしても『シビル・ウォー』にしても、それぞれの個性がひとつの画面に集まることで失われるものも多いと思う。それぞれのドラマ性がかき消されてゆく。 しかもソニーがDCMすなわちディズニー資本と合流して大作を作るという夢の実現を感じながらも、日本企業の独自性が封鎖され、マーケット主体の作りになっていることを憂うのだ。 こういう見かたをする者はおそらく自分だけだろう。多くのスパイダーマンファンは大いにこの映画に感動し、トム・ホランド演じるピーター・パーカーが自らを犠牲にしてMJやネッドの記憶から消されても町の正義を守るために行きてゆくという決意を背負うことに感動するはずだ。その点は筆者も同じである。しかし悪とされたかつての大物たちがなだらかに自分の欲望を捨てて全員「いい人」になるというオチはあまりにも理想主義が行き過ぎているようにも感じる。最後まで悪を貫き通そうとするゴブリンですら、善に落ちてゆく。 同じディズニーに買収された『スター・ウォーズ』シリーズにも似たような兆候を感じるのだが、大きな資本がそのシリーズのヒーローを金で買い上げて、ヒーローを同じ画面に大勢並べれば客が来る、という発想は、『ゴジラ』映画から始まって、その後映画会社として転落してゆく東宝を連想させる。東宝はもう映画製作会社ではなく劇場運営をする不動産会社である。東宝はもうまともな映画を作れない。それと同じことがソニーも含めたディズニー系の映画、あるいはハリウッド資本の大作主義(ハイリスクハイリターン)へと音を立てて進んでゆくことに危惧を感じている。 最後にもういちどいうが、映画としては全くの愚策である。面白くもなんともない。大した感動もない。セリフで何でも説明し、音楽で観客の心情を強引に引き上げる映画は正直いってもううんざりだ。見る側の力量もどんどん低下していると思う。最悪だ。
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