山口県下関市の生まれ。父は造船業を営んでおり、四男四女の末娘。2歳の時に父が死亡してから家は没落し、1916年9月、母と兄3人、姉ひとりとともに大阪に転居する。小学校へ通う傍ら、筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、10歳で免許を受けて“田中錦華”の名をもらう。20年、師匠の宮崎が琵琶少女歌劇を組織し、絹代も加えられ舞台に立つようになった。やがて映画の魅力に取りつかれ、母の猛反対を押し切って、24年8月、松竹下加茂撮影所に入社。母とふたりで京都に転居する。同年、野村芳亭監督の時代劇「元禄女」に脇役でデビュー。年末公開の清水宏監督「村の役場」で、早くも村娘の役で主役に抜擢される。翌25年は続いて清水作品に助演したあと、下加茂撮影所が閉鎖となって蒲田撮影所に移る。島津保次郎監督「勇敢なる恋」25、「お坊ちゃん」26、清水監督「一心寺の百人斬り」25、「裏切られ者」26、五所平之助監督「街の人々」26、「恥かしい夢」27、野村芳亭監督「カラボタン」26などに出演。27年に17歳で準幹部となった。この年、彼女に惚れ込んだ清水監督と結婚。しかし、この結婚に消極的な絹代は“あばれ放題の駄々っ子”を演じて清水を悩ませ、2年後には結婚を解消して母のもとに戻った。その一方で仕事は順調で、「近代武者修行」28で鈴木伝明と、「海国記」28では林長二郎と共演。さらに牛原虚彦監督、鈴木伝明主演コンビの「感激時代」「陸の王者」など、この28年には16本にも出演し、人気は急上昇する。翌29年には小津安二郎監督「大学は出たけれど」に出演。就職難にあえぐ青年の田舎の婚約者役で可憐な娘を好演し、「落第はしたけれど」30では逆境に立って涙しながらも健気に立ち向かう女性を演じるなど、“明るくあたたかく未来をみつめる”蒲田映画のシンボル的なイメージを確立。20歳で日本映画を代表するスターの位置に立った。五所監督は絹代の持ち味を引き出すのがうまく、「微笑む人生」「絹代物語」30と彼女を主役に佳作を手がけ、絹代ファンも倍増させた。五所は続いて日本映画における最初の本格的トーキーとして「マダムと女房」31を撮る。実はこの作品は光喜三子が主演で70%撮影が進んでいたところで、彼女が恋愛事件を起こして降板させられたことから、五所に口説かれて絹代が出演したものだった。当初、下関訛りで出演は渋ったものの恩人の五所作品と言うことでピンチヒッターに立ち、渡辺篤扮する劇作家の若い女房として、「ねえ、あなた」との甘ったるい声での呼びかけが、当時のファンには応えられない魅力となった。同年、衣笠監督のトーキー大作「忠臣蔵」にも出演。二役の林長二郎を「三河屋さん」と呼びかける声もまた評判になり、甘く訛りを含んだエロキューションは彼女のトレードマークとなった。この年のキネマ旬報ベスト・テンで「マダムの女房」は1位、「忠臣蔵」は2位となり、ともに大ヒットも記録。押しも押されもせぬ大女優となったのである。次いで島津監督の大作「生活線ABC」前後篇31、林長二郎との共演「金色夜叉」32では、当代随一の美男美女による寛一・お宮で人気をあおり、どこの劇場も満員札止めの大盛況となった。五所監督「伊豆の踊子」33では大日方伝の学生と淡い恋をかわしてファンを酔わせる。しかも単に可愛いだけではなく、太鼓を背負って何度もロケ地の天城峠を登り降りして背中をすりむくほどの熱心さで、スタッフを驚かせた。その人気に溺れない真摯な態度がまたファンを夢中にさせるのだった。一方、小津監督「東京の女」「非常線の女」33などでは可愛い子ちゃん役からの脱皮を窺わせたが、やはり松竹きっての売れっ子とあって、若さによる人気を前面に押し出した作品が続く。35年、島津監督の「お琴と佐助」に主演。佐助には高田浩吉が扮し、愛する男を占有する不安定で異常な心理を的確に格調高く演じて、造型・演技の両面に新境地を開いた。おとなの女優へと一歩、階段を上ったこの作品をきっかけに、気丈な自我の強い女性も演じるようになっていく。佐分利信、上原謙、佐野周二という若手三羽烏を次々と相手役として、「新道」前後篇36、「花籠の歌」37、「男の償ひ」前後篇37などでヒロインを演じてヒットを飛ばし、林長二郎とも「お夏清十郎」36、「番町皿屋敷」37と共演を重ねて、変わらぬ人気を示した。38年には野村浩将監督「愛染かつら」でヒロインを演じ、典型的なすれ違いメロドラマで記録的な大ヒットを飛ばす。しかし、絹代もすでに30歳。「愛染かつら」の人気は女優冥利としながらも、女優としての転機を考えるようになる。40年、溝口健二監督に請われて「浪花女」に出演。明治時代の文楽の世界を舞台に芸道の厳しさを描いたもので、溝口の期待にも見事に応えた。次いで木下惠介監督の第1作「陸軍」44では息子を戦地へ送る母を演じ、隊列に挟まれて福岡市内の大通りを行進する息子を必死に追い続ける母の姿に女の情念を刻み込み、反戦を込めた木下のメッセージを見事に体現した。戦後は引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続け、溝口の「女性の勝利」「歌麿をめぐる五人の女」46、「女優須磨子の恋」47、「夜の女たち」48に主演し貫禄の演技を披露。小津の「風の中の牝鶏」48では生活苦から一晩だけ売春をして、それを夫に疑われるという人妻のみじめさを好演。47年、48年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を受賞する。次いで溝口の「わが恋は燃えぬ」49、木下の「四谷怪談」前後篇49にお岩とお袖の二役をこなし、吉村公三郎監督の「真昼の円舞曲」49など、中年へと移行する難しい年齢となっていったことをはからずも見せた。49年10月、日米親善使節として渡米。撮影を見学し、俳優の職業意識の強さ、競争の激しさに触れ、50年1月に帰国した。当時、占領下の日本人にとって渡米することは大変な特権で、歓呼の声で送られる一方、たかがアメリカに行ったことくらいで、という反感もあり、それが彼女が羽田へ降り立った時に爆発する。投げキッス、銀座のパレードなどアメリカ仕込みのパフォーマンスをするに及び、マスコミから“アメション女優”と袋叩きに遭った。得意の絶頂から失意のどん底に突き落とされた彼女は、鎌倉の“絹代御殿”に引きこもり、自宅そばの崖から飛び降りようとまで思いつめた。しかし、何と言ってもアメリカ帰り。渡米を機会に松竹を離れてフリーになっており、まずは小津の新東宝作品「宗方姉妹」50に出演することになる。“育ての親”の松竹も帰国第1作の先陣争いに割り込み、木下監督で「婚約指輪(エンゲージリング)」を併行撮影。公開は撮影期間の都合で「婚約指輪」が7月、「宗方姉妹」が8月となった。両作とも絹代は不評だったが、次の伊藤大輔監督の時代劇「おぼろ駕籠」51の深川芸者の評判が良く、さらに成瀬巳喜男監督の「銀座化粧」51で子持ちのバーのマダムを好演して、溝口の「お遊さま」51で資産家の未亡人、同じく溝口のよろめきドラマ「武蔵野夫人」51では古風な倫理観を持った大学講師の妻の悲劇を演じるなど、多彩な役どころで復活の兆しを見せた。そして52年、溝口との「西鶴一代女」で見事な返り咲きを果たすのである。彼女は純情な御殿女中から、大名の妾、島原遊郭の太夫、商家の女中、人妻、さらには宿屋の飯盛女、湯女、水茶屋の女、女比丘尼と、さまざまな運命をたどり、ついには街娼となって老残の身をさらすという女の一生を演じて、素晴らしい力量を発揮。溝口もまた冷徹な演出で戦後最初の代表作とし、ヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞する。この52年は成瀬の「おかあさん」でも気丈だが優しい母親を好演し、翌53年の五所平之助監督「煙突の見える場所」では過去のある孤独な主婦をユーモラスな演技の中に不気味さも漂わせた。溝口の「雨月物語」53では、亡霊となって旅に出た夫の帰宅を迎える妻を、その姿に託して溝口が訴えた平和への願いを切々と滲ませて巧演。この作品もヴェネチア映画祭でサンマルコ銀獅子賞を受賞する。さらにこの53年、絹代は監督としてもデビューする。「一度は監督をやってみたい」という戦後すぐからの強い想いがあり、2月、丹羽文雄の新聞小説『恋文』で監督に進出することを発表。相談相手の成瀬の助言に従い、まず成瀬の「あにいもうと」に助監督について、「スター意識は捨てること」「セット内では腰をかけないこと」など、成瀬から厳しく訓示された。「恋文」は進駐軍兵士の臨時妻となった日本の女たちが故国に帰った夫に出す恋文の代筆を商売にする復員兵と、臨時妻として再会した元恋人の物語で、主演は森雅之と久我美子。次に溝口の「山椒大夫」54で佐渡に売られる哀れな母親に扮し、「噂の女」54では島原遊郭の置屋の女将をなまめましく演じた。戦後は特に溝口とともに存在してきた感のある彼女だったが、この作品でコンビに終止符を打つことになる。というのも、そこに小津の存在があった。54年7月、小津が日活で「月は上りぬ」を製作することになり、監督に絹代を推薦。ところが当時、彼女は大映と20カ月に5本の作品に出演するという契約を交わしており、五社協定に加盟していない日活に出演するのはおかしいと大映がクレームを付けた。このため監督協会も彼女を推すことができなくなったのである。結局、小津が押し切って、あくまでも田中監督を推薦するという声明書を出すに至る。監督協会理事長の溝口は、彼女可愛さから紛争を押してまで監督を強行する自信があるのかと迫り、会議では協会の名前を出すことを承認した覚えはないと発言したため、小津と溝口の友情にヒビが入ったのだった。小津は脚本の改訂から撮影まで終始、絹代に協力。彼女に深い感銘を与えた。絹代の監督作はほかに「乳房よ永遠なれ」55、「流転の王妃」60、「女ばかりの夜」61、「お吟さま」62などがある。監督として並外れた傑作はないが、破綻がなく、中堅どころの成績だったと言えよう。演技者としては年齢からも主役が難しくなるが、「月夜の傘」55、「流れる」56、「異母兄弟」「地上」57に重要な役で助演。58年には新藤兼人監督「悲しみは女だけに」でアメリカ移民の花嫁となり30年ぶりに帰国した老女、木下監督の「楢山節考」では姥捨山に捨てられるという掟に従って、欣然として息子に背負われていく老母を、自分の差し歯4本を抜き、苦痛をこらえて力演。キネマ旬報賞女優賞を受賞した。以降は脇役にまわり、小津の「彼岸花」58でユーモアのある可愛い母親、市川崑監督「おとうと」60で小説家の後妻でふたりの子供の継母を助演。黒澤明監督「赤ひげ」65で加山雄三の母親を演じたのち、「もう私の出る幕はなくなった」と感じたことや、ひとり残った肉親である下の兄がパーキンソン病にかかり、その看護のため、すべての仕事を断るようになった。70年、NHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』に出演を請われ、平幹二朗演じる原田甲斐の母を演じる。兄の入院先の病院に寝泊まりして録画撮りに通う傍ら、併行してNET(現・テレビ朝日)『明日の幸福』70に出演したのちの10月28日、兄が死亡。72年には山田洋次監督「男はつらいよ・寅次郎夢枕」で7年ぶりに映画出演し、寅さんが旅先で立ち寄った先の農家のおかみさんを微笑ましく演じた。74年、中村登監督「三婆」に三益愛子、木暮実千代と共演したあと、熊井啓監督に請われ「サンダカン八番娼館・望郷」74に主演。少女の頃にボルネオに娼婦として売られ、戦後に帰国して、ひとり老残の身で生きる“からゆき”おさきを、貧困、汚濁、屈辱、孤独に、寛容、善意、感謝、楽天性を対比させた対位法的演技とも言うべき傑出した演技力を発揮して崇高な人間像を造型し、キネマ旬報賞女優賞、毎日映画コンクール女優演技賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞。65歳の老女優としては空前の偉業をなしとげた。さらにベルリン国際映画祭でも女優賞までもたらせ、空前の田中絹代ブームを巻き起こす。テレビドラマでも、日本テレビ『前略おふくろ様』75~76に萩原健一の母親役、TBS東芝日曜劇場の『りんりんと』74、『幻の街』76に笠智衆と共演。しかし77年1月12日、脳腫瘍で入院。付き添いのまたいとこ・小林正樹監督に「台詞がしゃべれず、じっと動かないでいることしかできなくなっても、つとまる役はあるかしら」と問いかけたと言う。同年3月21日、67歳で死去。昭和の時代の最大の女優の死だった。没後10年目の87年、彼女の生涯を描いた新藤兼人の小説を市川崑監督が映画化した「映画女優」が公開。私生活では必ずしも恵まれなかった彼女の半生を吉永小百合が演じた。