賛否両論ですが、私は気に入りました。雨の別れのシーンは圧巻。
ネタバレ
この秋の公開作品の中でも、一番話題になっている作品と言えば、やっぱり「マディソン群の橋」だろうと思います。というわけで、私も話題に乗り遅れないよう、見に行ってきました。それにしても、この映画ほど評価がきっちり2つに分かれてしまう映画も珍しいと思います。マスコミに載っている評判はほとんどが好評のようで、ありきたりの恋愛小説を情感豊かなロマンスに作り上げたイーストウッドの監督としての手腕や、ヒロインを演じたメリル・ストリーブの演技力などに賞賛が集まっているようです。
一方不評なのはどちらかというとお偉い評論家ではなく、目立たないページに書かれたちょっとしたコラムとか、実際に映画を見た一般の映画ファンからの声の中に多く聞かれます。内容としては、理屈はいろいろあってもしょせんは不倫、それを美化するのはどうか?とか、キンケイドという男のイメージにイーストウッドが合っていないとか、二人が激しい恋に落ちる必然性がいま一つ釈然としないなどです。
さて、それで私はどう感じたか?なのですが、結論から言って、私はこの映画を賛辞するほうにまわりたいと思います。この映画の優れたところは、前述したようにすでにマスコミなどで語り尽くされている感がありますので省きますが、一口に言って、私はこの映画のヒロインの気持ちがよくわかりますし、彼女の全ての行動に賛同するわけではありませんが、大いに彼女に同情します。
そもそも、ヒロインへの感情移入と聞くと、すぐに「不倫を肯定するのか否か?」という議論になってしまうのは、いささか短絡的すぎるのではないかと、私は思っています。もし「マディソン群の橋」のヒロインを批判するのなら、今までの不倫映画「逢いびき」や「恋におちて」とか、「ピアノレッスン」などのヒロイン全てに厳しい目を向けなければなりません。
「マディソン群の橋」のヒロイン像を考えるとき、一番考慮に入れなければならないのは、彼女の生きた時代背景とアイオワという土地柄だと思います。もし彼女が存命なら、今年で76才になるはず。国こそ違うけれど、とりあえず身近にいる同年齢の女性をイメージすれば、戦中戦後を生きた彼女たちの人生がどのような時代背景にあったか、だいたい想像つくはずです。
イタリアで生まれた彼女にとって、戦勝国であり豊かな国アメリカでの結婚生活には、大いなる夢があったはずです。夫だけを頼りに見知らぬ国にやって来た彼女は夫とともにアイオワの片田舎で小さな農場を営みますが、彼女が夢見た場所は、よそ者がやってくれば半日で町中の噂になるような、つまりそこに住む人たちは何世代にもわたり自分の周りの親戚や友人以外を知らずに生まれ死んで行くと言った、保守的で封建的な閉ざされた世界でした。教師だった彼女は、夫の意向で職業を捨て子育てと農業に専念しますが、今の時代とは違い、もちろん図書館もカルチャーセンターもない。子育てが一段落してみれば、すでに子供たちとの会話はなく彼らは自分の知らない世界を持ち始めている。夫はまっとうで真面目、人を傷つけたことのない誠実な人柄ではあるけれど、知的な会話で彼女をわくわくさせてはくれません。
そんなジレンマの中、突然家族の留守に自由の香りを全身にただよわせた見知らぬ世界からの男・キンケイドが現れたわけです。彼に出会ってからの彼女の思い切った行動には、私としてもかなり違和感があります。家族の留守中に見知らぬ男を家に引き入れてしまうということ自体、この時代や土地柄を考えれば、信じられないような行動です。しかも彼女はこの恋愛に関して完全に主導権を握り自分自身で選択しています。けれど、なぜ彼女があのような行動に走ったかについては、心情的に理解できるし、人間として当然持っているはずの情熱とか夢を封じこんで生きなければならなかった彼女の物語が、実は当時の世界中の名もない何千・何万という女性たちの人生そのものであったことを、この映画は改めて気付かせてくれました。
ただし、これはあくまでも女性としての感想で、男性の目から見ればかなり身勝手な言い分かも知れませんね。特に、死後夫と同じお墓に入りたくないという内容の遺言を残すに至っては、「だから女は恐い」と言われても仕方ないと思います。一世一代の恋を思い切るという、いさぎよさを持った彼女が、未練たらしくこんな遺書を残したことに私もがっかりしています。「逢いびき」の夫のセリフではないけれど、彼女はアイオワから一歩も出ずに、遠くまで旅に出て再び家族のもとに戻って来た。そして、その一生に一度の旅の思い出を胸にしまって死んで行った・・・そう解釈したいと思います。彼女の夫が何も知らずに亡くなったのがせめてもの救いです。
(1995/9/30 記)