フォアグラよりもこっちは100円以下のコロッケがうまいのさ
冒頭、新宿の町中を逃げ回る女を追い掛ける視線から、主役の天知茂が女の易者に呼び止められる。今ではなんでもない導入部であるが、当時ではつかみはOKみたいな演出である。この頃の映画ならまず登場人物のキャラクターやバックボーンを説明して、どういう話かということを描く。本作品はなぜ女が追われているのか、女を追っているのは誰かは分からない。ひょっとすると眉間にしわを寄せている天知茂が追っているのではないか、と思う。案の定、天知が追っているのだが、冒頭での視線は天知のものではない。天知は売春組織を追う事件記者であり、その宿で睡眠薬の入った酒をのまされ、目覚めたときは横に冒頭で追われていた女が首を絞められ死んでいた。彼を罠にはめたのだ。天知は自分を罠にはめた奴を探す。
女子高校生の役で三ツ矢歌子が演じているが、この時23歳だったのでこれはどうかと思うんだが、彼女はこの映画製作の年に小野田嘉幹監督と結婚したのだった。やっぱり女子高生はまずいんじゃあ・・・。
天知がゲイバーへ行く場面もある。石井輝男監督はゲイを良く出してくるが、これが今では許されないことだ。異形のもの・奇怪なものという描き方をする。あるいは気持ち悪いとギャグにするというか、LGBTがとやかく言われる今ではこれらは差別的となる。「網走番外地」でも囚人のなかにオネエを出演させているが、当時としてはゲイボーイをそんな扱いをしてもクレームはこない。もちろんゲイが声を上げるのは憚れる時代でもあったからだろうし、またこの時代だと一般の人もこれが道徳的にいけないことなんだとは思っていない。昔はおかまと侮辱して笑っていたよなあ。
今と違ってヌードも見せられないし、過剰な残虐場面もダメなのだが、それでも歓楽街のいかがわしさ、妖しさを照明を使って雰囲気を出している石井監督のこのタッチは素晴らしいと思う。不健全娯楽映画の様相がこのシリーズの見どころである。このあやしい魅力が満載の映画を、淀川長治は「とりすました味気のないデラックスのディナー・コースより、この荒っぽい手料理のなんと楽しいことか」と評している。言い得て妙、だと思う。石井輝男監督の映画は一流シェフの高級料理というものでなく、二流の安いけれどおいしい街角の食堂のメシという感じだ。知る人ぞ知る穴場だな。
また淀川は本作の三原葉子を「安っぽいグラマーに扮した三原葉子が出てくると、もうそれだけで面白くなる。ジェルソミーナがグラマーに早変わりした魅力である」と激賞するのだった。「地帯シリーズ」は三原葉子の魅力がひとつの見どころだ。彼女は美人じゃないけど、どこか可愛くて人を惹きつけるところがある。この映画でもエロを担当して天知を翻弄するくせに、無垢なところもあり、それをジェルソミーナに例えるとは、これまたその通りと思ってしまう。こういう気付きがあるところが淀川批評の面白さであり、私は彼の文章に触発されることが大なのである。ちなみにジェルソミーナというのはフェリーニの「道」でジュリエッタ・マシーナが好演したヒロインだ。私はこの三原葉子を観て、ジェルソミーナを連想しなかった。もちろん私ごときが淀川の鑑賞眼と同レベルだとはおこがましいことなので、間違ってもそうは言わない。
また本作の結びに「この映画作者はもっと自信を、もっと本格的にとりくむべし」と愛情のある励まし。こういう言われ方をしたら、石井監督も腹を立てるまい。私も淀川を見習って駄作もやんわりと言いたいのだが、つい怒っちゃって罵倒するから人間が出来ていない。
今駄作と言ったが、本作はそうでないよ、念のためにことわっておく。