午前十時の映画祭で初めてこの映画を劇場鑑賞。途中のインターミッションも含めて、当時上映された状態が再現されていて心から感動した。午前十時の映画祭に感謝。この映画を家の小さなモニターで見てもこの感動には至るまい。冒頭、シャクヤクの花を延々と映すシーンの美しさ。この花は上流社会の花で、ここから雨の夜のオペラ座に場面は移り、汚いいでたちの汚い”言葉”の花売り娘がやってきて・・・
こうした展開はバーナード・ショウの原作で用意されていて、ほぼそれを踏襲して映画も作られているのだろうが、前半のクライマックスであるアスコット競馬場のシーン、そしてなんといっても大使館にイライザ(オードリー)が現れて女王陛下の目にとまるシーンなどの美しさ。イライザが身につけている宝石のきらびやかな映像などが、大きなスクリーンに映し出されると、そのあまりの美しさに圧倒されて涙が出てきそうになる。これはおそらく映画館でしか体験できないシーンではなかろうか。この大使館のシーンの演出も見事だ。社交界で見たこともない美しい女性が現れて、彼女はいったい何者か?というのを全くセルフなしで表現する。ネット社会の現代にあっても同じことは起こりうるが、当時においても人びとの「知りたい」という欲求の愚かさと欲求の大きさで情報伝達が早くなることなどがうまく描かれていると思う。
何度かこの映画を見直して、ついつい忘れがちになるのがイライザの父親アルフレッドだ。貧しい彼は弁が立つ。それをたまたまヒギンズ教授に見込まれて、偶然アメリカの大使館で講演し、それが評価されて金持ちになっている。リッチになったが息苦しいという父親のセリフは娘のイライザにも訴求するのだ。この対比も実に巧妙だと思う。イライザがヒギンズたちが自分をまるでおもちゃ(ピグマリオン)のように扱うことに反抗することを、この父親が代弁したのである。学びのあるシーンだった。