1980年代、既に年季の入った街には近代を最速で駆け抜けたイギリスの傍系といったアイルランドとその主要都市ダブリンの悲哀もみている。そこにある信仰は、例えばシングストリート高校の厳格な校則としても現れているのかもしれないし、その高校を指導するバクスター(ドン・ウィチャリー)の教義にも示されているものでもあるのだろう。神が授けたものとしての人間が定義されたとき、神がいかなるありようをしているのかについての解釈によって、人間のなす未来は定められてくる。
街のから離れ、その先には海が見えている。イングランドも、アメリカもフランスもその先にあり、そちらからアイルランドに向かって文化がやってくる。コナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)の一家にもそれは訪れており、コナーの兄ブレンダン(ジャック・レイナー)は音楽文化を通して、その先に耳をそばだてている。
ブレンダンは、ダブリンと家族の悲劇からレコード世界へと逃れ、ロックに逃避する。ロックでなくても、そこにポップスはあり、デュラン・デュラン、a-ha、ジェネシス、デヴィッド・ボウイ、ヴィレッジ・ピープルなど音楽シーンがそこには展開している。コナーの方も未来派を標榜し、シングストリート校の価値感を超えて自らの行く先を定めようとしている。オカマ、ホモ、喫煙、暴力などもろもろの中傷と誘惑のなかで、彼は、楽器の名手エイモン(マーク・マッケンナ)やごく少数派の黒人ンギグ(パーシー・チャンブルカ)とバンドを開始する。
コナーのバンドの動機には、シンプルに女性があり、したがって彼はその女性と海に向かって飛び込み、航海に出る。女性はラフィーナ(ルーシー・ボイントン)で彼女は彼女なりの「複雑な」事情を抱えており、その複雑さこそがバンド音楽によって奏でられるポップスに共鳴する。彼女はひとことでその複雑さと両義性を「悲しみの喜び」を表現している。バンドは80年代においてビジュアル的にあらねばならない。ミュージックビデオを撮影、制作し、デモテープに加えて頒布する。またビジュアルは、メイクによって装飾的に、表層的に彩られていく。いじめっ子のバリー(イアン・ケニー)をローディーとして加入させ、巻き込んでいくことによって、コニーらの活動は広がりとうねりをみせ始める。搾取から絞られるようにして抜け、校長と学校と信仰へのプロテストとしての未来が志向されていく。