伊丹万作
|Mansaku Itami| (脚本/原作)
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本名 |
池内義豊 |
出身地 |
愛媛県松山 |
生年月日 |
1900/01/02 |
没年月日 |
1946/09/21 |
略歴▼ もっと見る▲ 閉じる
【日本のルネ・クレールと呼ばれた知性派の名監督】愛媛県松山市に生まれる。本名は池内義豊。旧制松山中学時代には中村草田男、伊藤大輔らと同人誌をつくっていた。「伊丹万作」は伊藤大輔がつけたペンネームで、二人の深い友情は終生続くことになる。本来は画家志望で、上京し、雑誌『少年世界』に巌谷小波の挿絵を描いていたが、伊藤大輔の勧めでシナリオを書き始める。1928年5月に設立された片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロ第一回作品「天下太平記」のシナリオを書き、同作で稲垣浩が監督デビューしている。以後、二人は名コンビとなり、伊丹が書いた35本のシナリオのうち、9本を稲垣が監督している。二人は〈髷をつけた現代劇〉を提唱し、みずみずしい感覚の時代劇を撮り、サイレント末期からトーキー初期にかけて、時代劇のジャンルに新生面を切り拓いていった。【日本で初めて作品に〈散文精神〉を盛り込む】同じく28年には、3本目のシナリオ「草鞋」を周囲に無断で自ら監督し物議をかもしたが、「仇討流転」と改題して公開された。その後、吉川英治原作の「続萬花地獄・第二篇」を撮影中に発病して倒れ、稲垣との共同監督として完成したが、以後、断続的に病魔との闘いを強いられる。初期作品には伊藤大輔の巧みな話術の影響が見られたが、伊勢野重任原作の「国士無双」(32)、長谷川伸原作の「刺青奇偶」(33)あたりから、ルネ・クレールを思わせる独特のエスプリと知的で諧謔に満ちたユーモアが注目を浴びるようになる。特に、剣豪を名乗る偽者が本物に簡単に勝ってしまう、偶像否定を鮮やかに謳い上げた痛快時代劇「国士無双」は、「これまでの日本映画監督が持っていなかった〈散文精神〉を作品の中に盛り込んだ」と絶賛された。35年、新興キネマに移り、当時、あまり有名ではない歌舞伎俳優の市川朝太郎主演でトーキー第一作「忠治売出す」を発表、時代劇スター中心主義の映画界の風潮に痛撃を加え、新風を吹き込んだ。志賀直哉原作の「赤西蠣太」(36)も伊達騒動のパロディで、皮肉な眼で武士道の事大主義が眺められている。日独合作映画「新らしき土」(37)の日本側の監督を務めるが、不本意な仕事で、一年間、精力を浪費したといわれた。ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を翻案した「巨人伝」(38)の後、40年、東宝を退社し、翌年、日活に入社するが、結核で絶対安静を命じられ、病床につく。以後、シナリオ執筆に専念するが、岩下俊作の『富島松五郎伝』を脚色した「無法松の一生」は、43年、稲垣浩によって映画化され、不朽の名作となった。「手をつなぐ子等」も稲垣浩によって、48年に映画化されている。最後まで、足尾銅山鉱毒反対運動の指導者であった田中正造の生涯を描くシナリオの構想を練っていたが、46年、親友の伊藤大輔に看取られ、病没。映画界きっての名文家として知られ、『戦争責任者の問題』『演技指導論草案』をはじめ啓示に富む独創的なエッセイを数多く残している。長男の伊丹十三もエッセイスト、映画監督として活躍した。娘ゆかりの夫はノーベル文学賞作家の大江健三郎である。
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