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街の小さな商店で起きた強盗事件を発端に、警察の不正に立ち向かおうとした警察官と、裁かれることのなかった真犯人たちの話。権力に刃向かい干されてしまった警察官と共に、冤罪を着せられた可哀想な少年たちが立ち上がるというストーリーは、定番の流れや演出でありながら応援したくなる。映画としては少しご都合主義に感じられる部分もあったが、この映画を観た日にちょうど袴田事件の再審のニュースが流れたというタイミングもあって、主題としても考えさせられるものがあった。
1998年の原作映画は男性同士の二人組だったが、今回は男と女に設定が変わっていたのが、印象を大きく変えていた。前作を観たのがかなり前なのでぼんやりとした記憶だが、残酷でありながらもその過剰さに少し笑いを覚えた気がする。しかし、今作は笑いが微塵もないシリアスな映画になっていた。人を拷問するシーンがフィクションに見えず、世界で今も起きている現実として見えてしまう自分の受け取り方の変化かもしれないが……。柴咲コウの本心が分からない魅惑的な声に惹きこまれた。
アンゼルム・キーファーの作品を紹介するためにヴェンダースがとった手法は、言葉を削ぎ落として、高精細で抽象的なイメージを使うということ。少年時代のシーンなどはノスタルジーを感じてしまわなくもないが、同世代の作家として世界観に共鳴して撮っているのも窺える。制作風景の場面では、80歳近い作家自身が熱々の液体を絵にぶちまけていてスリリングで良かった。ヨーロッパの負の歴史に向き合う作家が、現代社会とどのように向き合っているのか、もっと知りたい気持ちが芽生えた。
人間は自分以外の誰かのために自分の人生をつかうことができる。そのことを信じさせてくれる素晴らしい作品だった。初めは気軽な学園コメディだと思い観ていたが、少年が一人取り残されるあたりから、クリスマスの神聖な空気も相まって映画全体が神秘的な空気で包まれた。出てくる人たちは、別にみんな善人というわけでもない。それでも、たとえ人生の中の一瞬の出来事であっても、人間と人間の儚く強い結びつきが存在できたことに心震える。クリスマス映画の定番になってほしい!
ソル・ギョングの風貌は質朴で愚直なまでのヒューマニズムゆえに孤立し苦悩する人物像がすぐさま想起される。実話ベースの冤罪事件の真相を探る本作でも〈狂犬〉という異名をもつ敏腕刑事という触れ込みとは裏腹に、滲むように表出される優しさを隠蔽することはむずかしい。15年という歳月を行きつ戻りつしながら、刑期を終えた少年たちの現在と事件当時を交錯させる語り口もあまりに古色蒼然というべきだろう。とはいえ往年の〈警視庁物語〉シリーズを彷彿させる妙な安定感は捨てがたい。
「勝手にしやがれ」シリーズを連打していた頃に見た「蛇の道」はその酷たらしいまでの暗さに驚いたが、いっぽうで、スラップスティックすれすれのガンアクションには黒沢清の真骨頂が窺えた。リメイク版もパリの市街を柴咲コウが律儀に自転車で移動する場面や廃屋のような寂れた工場での拷問シーンまでもが前作同様の低予算感覚に貫かれ妙に感心してしまった。ただし住宅街を車で周回するだけで〈不気味なもの〉を醸成させた不可知論的な恐怖をめぐっては前作に軍配が上がるのではないか。
ヴェンダースは敗戦の前後に生まれ、同時代としての戦後を生きたアンゼルム・キーファーの膨大な作品を俯瞰する際、注釈としてハイデガーとパウル・ツェランを引用する。ナチズムの〈凡庸な悪〉を告発したハンナ・アーレントの愛人・師でありナチスに加担した大哲学者と虐殺から生き残ったユダヤ詩人の対比が印象に残る。とりわけツェランの肉声による詩の朗読が延々と流れる件が忘れがたい。ホロコーストの呪縛を抱えた母国へのアンビヴァレントな想念が本作の純粋心棒といえよう。
1970年という映画の時代背景はアメリカン・ニューシネマの全盛期にあたるが、既成のヒットポップスを一見、無造作に垂れ流すような手法はまるで「卒業」のようである(映画館でD・ホフマンの「小さな巨人」を見るシーンあり)。無論下敷きになっているのはハル・アシュビーの「さらば冬のかもめ」だろう。互いに反撥しあう師弟関係が繊細な感情教育によって変容を遂げてゆく。こんな深い味わいをもったロードムービーは本当に久しぶりだ。ポール・ジアマッティの新たな代表作である。
冒頭に「実話に基づいたフィクション」と字幕が出る。時代背景は1999年から2016年。冤罪に青春を台無しにされた少年たちの物語で、熱血刑事が杜撰な捜査の真相に迫る。しかしこれは臆面もなくお涙頂戴的な脚色を施した作品であった。絵に描いたような正義漢、卑劣漢、臆病者が彩る感情のドラマは古めかしく、過去と現在を行き来する構成も効果的とは言えない。要点から要点に飛躍できる便利さがあったにしても、余程の趣向を凝らさなければ、肝心要の人の心に太く繊細な筋を通すことはできないのだ。
セルフリメイクといえば、ヒッチコックや市川崑らを例に出すまでもないが、黒沢清も挑戦した。しかも最も過激だった頃の異色作を、それもフランスで。哀川翔が演じた役を柴咲コウが演じたことによって“復讐の冷酷さ”に新しいニュアンスが加わっている。が、それ以前に驚いたのは、画面構成がオリジナルからあまり変わらないことで、しかも緊張感と恐怖感が減退していたこと。そして何よりも残念なのは、マチュー・アマルリックを含むフランスの俳優が揃って精彩を欠いており、退屈な存在に思えたことだ。
ドイツの芸術家アンゼルム・キーファーのドキュメンタリー。冒頭にドレスの彫刻群が現れる。頭がなく、代わりに本や石が乗せられ、ガラスの破片が刺さったものもある。女性の声――「私たちは名もなく忘れられし者。でも私たちは忘れない」――空間を時間が浮遊している。ドイツ降伏の1945年に生まれたアンゼルムは、自国の過去と対峙し、その忘却に抗う壮大な絵画と彫刻を連作。同年生まれのヴェンダースは「ベルリン」を撮った。3Dを2Dで観た。が、それでもここには紛れもない“映画の感動”があった。
アレクサンダー・ペインは今もロードムービー作家であり続けていて、世がどうであろうとも人間主義を手放さない。名優ポール・ジアマッティも同様だ。例えば同じペインとの「サイドウェイ」、あるいはクローネンバーグの「コズモポリス」終盤で映画全体をさらったあの人間臭さ。1970年のクリスマスが舞台の教師と生徒の物語。冬の映画であり、70年代のハル・アシュビー好きは気に入るのではないか。我が道をゆくアメリカ監督による小さな宝石。ぼくならオスカーはジアマッティに投票しただろう。