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ソン役の女の子のいつも微妙に物憂げな、損したような表情と、アーモンド形の澄んだ瞳が忘れ難い。こどもは純真なんてのはオトナの勝手な思い込みであり、こどもにだって、こどもだからこそ、ほとんど世界が終わるくらいの複雑で痛ましい出来事が、沢山ある。にもかかわらずオトナは自分もかつてはこどもだったことを忘れて、それを大したことだと思わない。この作品のすぐれた所は、以上のような「紋切型」を、俳優たちの不安定に輝く存在感が軽く超えているところにある。秀作です。
最近ホントにナチス映画多いよね(こう書くのも何度目かですが)、どんな事情があるのか知らんけど。昨年の東京国際映画祭コンペ部門で東京グランプリを受賞した本作は、オリビエ・アサイヤス監督作常連のラース・アイディンガーと、ダルデンヌ兄弟「午後8時の訪問者」も素晴らしかったアデル・エネル(ドイツ語を完璧に喋っていて驚き!)が、ナチの戦犯と犠牲者、それぞれの孫を演じる。歴史的背景とラブストーリーの配合は生真面目なヒューマニズムに彩られているが、悪くない。
舞台はポルトガルのポルトだが、これはいわば多国籍=無国籍映画だ。主演の故・アントン・イェルチンはソ連(当時)出身のアメリカ俳優、ヒロインのルシー・ルーカスはフランス人、監督ゲイブ・クリンガーはブラジル出身でアメリカ在住。これは異国情緒を描いた作品ではない。どこにも属せないのに、どこかに居るしかない人間を描いた作品だ。時々、ナイーヴなまでにあからさまに映画狂的な映像表現が個人的にはうるさく感じたが、全体としては好ましい雰囲気の映画だと思った。
うーん、良くも悪くもエリカ・リンダーの魅力というか人気というかイメージに全面的に依存した映画で、それを一歩も超えていない。たぶんそういう受容の観客しか観ないのだろうから別に構わないとも言えるが。オシャレなエロシーンの連続に赤面、いや鼻白みつつ観終えたが、あとにはまったく何も残らなかった。悪いけどこれはLGBT映画でもなんでもないと思う。「アデル、ブルーは熱い色」と較べるのもあっちに失礼だが、志が根本的にまるで違う。なにがネオイケメンだよ、と思ったね。
少女たちのアップが印象的だ。彼女たちの顔から片時も目が離せない。まだ社会での振る舞い方を身につける前の、経験や常識にとらわれない、あるいはそれらでは取り繕えない感情の一挙手一投足が、息を潜めて見つめるように撮られている。ステレオタイプの安心感とは無縁だ。少女たちが次にどんな表情を見せるのか、相手の行動をどう感じてどう動くのか、それによって関係はいかに変化していくのか。それらを丁寧に積み重ねた細やかな緊張感は超一級のスリラー映画にも匹敵する。
ドイツ映画の近作のユーモアセンスが個人的にどうも肌に合わない。ナチスというテーマに対して新しい角度から斬り込もうとする意欲は感じるが、すべてがそのためのネタに思え、生身の人間のドラマとして観られない。エキセントリックな女子大生役のアデル・エネルは、ダルデンヌ兄弟の作品ではストイックな表現から豊かな感情が立ち上がって見えたが、泣きわめくほどパフォーマンスの粋を出ず、むしろその言動が彼女の内面に迫るのを邪魔する。ただのメンヘラではあまりに気の毒だ。
芸術において繊細さは不可欠なのだろうが、それだけでは他者の鑑賞や消費に耐えうるものにはならない。現世で社会的に価値が認められている作品はそのバランスが優れているのだろう。これは人にも当てはまる。繊細すぎる感性は実社会で生きることを困難にする。異国で育ち、定職もなく、人間関係の希薄なジェイクは、夢見がちなところがキュートでもあるがナイーブすぎる危うさがつきまとう(本作そのものにも)。演じたイェルチンの実人生がそれを物語っているようで切ない。
エリカ・リンダーは外見や肉体が極端に男性的であるわけではない。その中性的な顔立ちは男としても女としても美しく、体つきにも女性らしさはある。しかし振る舞いや歩き方はたしかに男のそれに見える。劇中で彼女は「私は単なるトムボーイではない」と口にするが、性別がセクシュアリティやジェンダーの問題である以前に「自由になりたかった」という一言がすべてだろう。ただの人と人がどうしようもなく惹かれ合うとき、異性という存在はあまりに虚弱であると描ききった力作。
思春期以前の少女の繊細な心理を描いた傑作。いじめが主題だが、監督脚本のユン・ガウンは学校や教師の責任を問うのではなく、あくまで少女たちの微妙な心理に密着し丁寧にそれを掬い取っている。特筆すべきは、イ・チャンドンと監督がオーディションで選んだ主役の少女チェ・スインの驚異的な名演だ。作品の狙いを完全に理解し表現している10歳の少女は、可愛いだけでなくすでにして性格俳優の風貌を宿している。困難な状況を幼い知性とエネルギーで克服していく姿に感動する。
ホロコースト研究所でナチスの犯罪を研究している人間嫌いの歴史学者の主人公を中心に、自己の信ずるものに直情的に没頭し、協調性やユーモアのまったくない変人たちのおりなすブラックな喜劇であり恋愛劇である。彼らのナチ犯罪への過剰なまでのこだわりがこの映画であり、昨今多いナチス映画の中ではひときわ異色を放つ作品である。大戦中はドイツと同じ同盟に属した敗戦国であるにもかかわらず、戦争犯罪に不感症になりつつある我々に突きつけられた痛烈な問いかけである。
ポルトを舞台に異国を彷徨う男女の一夜の出会いを映像技術を駆使して描く美しい映画だ。因果関係や周囲の事情など夾雑物を排し、ひたすら二人の心理、官能に迫っていく。監督は批評、ドキュメンタリーから出発した34歳のデビュー作、というと「恋人たち」のルイ・マルを彷彿せざるを得ない。スーパー8、16ミリ、35ミリを巧みに使いわけているのも緻密な計算に基づいていることがわかる。27歳で世を去ったアントン・イェルチンのスターらしからぬ風貌、演技も強く心に残る。
正確に計ったわけではないが、全体の半分以上が女性同士の過激なセックス・シーンである。ディルドを使うシーンも何度かある。レズビアンがストレートな女性を虜にしてゆく過程を肉体関係だけで描こうという意図は判らなくはないが、濡れ場と濡れ場を繋ぐシーンが陳腐で創意がないので、限りなくポルノグラフィーに近いものになっている。監督は女性で同性二人の絡みは美しく撮られており、興奮を誘うが、その興奮はすぐれた映画が与えてくれる興奮とはいささか違うようだ。