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この外国映画のレビュー頁を引き受けたとき、自分の中で決めたルールは、映画の鑑賞前にあらすじや解説を読まないことだった。その方法は本作にて、ぴたりとハマった。おかげでドイツ軍に占領されそうな現代のフランスで、港町から国外に逃げだそうとする移民や難民の人たちを見て、一体どの時代なのか夢幻の迷宮に迷いこんだような心地になった。映画を観ながら、ナチスに追いつめられ、ポルトボウで服毒自殺したユダヤ系の思想家ヴァルター・ベンヤミンのことを想起していた。
『ライ麦畑でつかまえて』や『フラニーとゾーイ』などの小説は読んでいたが、謎めいたサリンジャーの生涯はよく知らなかった。コロンビア大学で創作を学ぶも第二次大戦は戦場の最前線で過ごし、やがてベストセラー作家になるもファンに追いかけられて田舎に隠棲する。師事した教授や編集者、恋人や妻とのドラマを交えながら説得的に描く。アメリカ映画離れした陰影の濃いライティングと、東海岸のヨーロッパ的な建築物や室内装飾のなかに作家の成長と喪失が刻みこまれた見事な作品。
この感覚、何ともいえず新鮮。映画内で言及される『ゴモラ』のように、強面のおっさんばかり登場する男臭いマフィア映画なのに、唐突に音楽が流れだすと彼らが感情をこめてカンツォーネを歌いだすミュージカル映画だ。地の声と歌声にはギャップがあり、口パクさえ合っていないように見えるのはご愛嬌。あえて日本映画に喩えるなら大阪を舞台にした関西弁のヤクザ映画が、演歌のミュージカルとして完成されたという感じか。こんなミスマッチは岡本喜八の時代劇「ジャズ大名」以来かも。
邦題や宣伝ヴィジュアルからは想像しづらいが、ナチスのナンバー3だったハイドリヒを描く伝記映画ではない。彼の暗殺を計画し、チェコ亡命政府が送りこんだ工作メンバーの暗躍を描いており、後半はナチスに彼らがじりじりと追いつめられる攻防である。アクション大作の風格をもつキレのいいカット割りが魅力で、リアリズムも貫徹されている。監督はスピルバーグあたりの演出を意識しているのか。とはいえ、現代の映画なのにナチスの軍人がドイツ訛りの英語で話すのはどうかと思う。
架空の現代を構築して、その時代空間で過去・現代・未来を同時に描いてしまうという着想の大胆さは、C・ペッツォルト監督の創作的な冒険だろう。「東ベルリンから来た女」「あの日のように抱きしめて」で主題にした歴史や戦争の不条理。そこに偶然・勘違い・すれ違いを加え、メロドラマの情趣で人物の現実を描く特徴は健在。現代の難民をナチスの迫害から逃げ惑うユダヤ人に重ねて時代を抽象化したことは、自身の作風を守りつつ、新たな物語世界を志向する野心と受け取りたい。
『ライ麦畑でつかまえて』を何度か読んで知った気になっていたJ・D・サリンジャー。だが映画のニコラス・ホルトのサリンジャーは、活字の中にのみ存在していた作家に肉を付け血を通わせてくれる。ストーク・クラブに足繁く通う青年のウーナ・オニールへの恋。軍隊生活に戦争体験。PTSD、禅やヨガへの傾倒。そうか、ホールデンはサリンジャーだったのか。ケヴィン・スペイシーのストーリー誌編集長との関係が見どころ。二人のラストが余韻を残す。きれいにまとめた半生記だ。
殺し屋と看護婦の復活した恋をストーリーの軸にしたこの映画は、魚介類を煮込んだナポリ料理アクアパッツァ(主人公の雇い主は魚王だし)みたいだ。クライムサスペンス、アクション、ラブコメを大鍋に入れ、ミュージカルで大胆な味付け。仲間を裏切っても殺しても二人がずんずん進むのは、さすがアモーレの国。随所に映画愛が見られるのも嬉しい。その一番は「フラッシュダンス」の主題歌を伊語で歌う場面。死者たちの踊りはMV〈スリラー〉を彷彿する。チープ感も美味しく満腹になる。
主人公ハイドリヒの冷酷非情さは、見るもおぞましい。そのうえ美形のロザムンド・パイクが筋金入りのナチス信奉者を演じると、役柄に凄みが。というわけで、浄化と称してユダヤ人を絶滅することに血道をあげた人物を描いたこの映画の衝撃は強烈だ。ただしそれは前半まで。後半は彼を暗殺するための、チェコ人青年部隊によるエンスラポイド作戦に話が変わる。結果、映画は接ぎ木の様相に。前半・後半はそれぞれが力強いドラマになっているので、独立した別々の作品として見たかった。
難民の受け入れ問題に揺れる欧州の時勢を反映した架空の現代設定がやや難解。原作のホロコーストからの置き換えであることは、頭では理解できても、ドラマの背景として機能させるにはいささか力不足か。行方不明になった夫を探す謎めいた妻を演じたパウラ・ベーアは、クラシカルな美女を好演しているが、自らの思惑で男を振り回すファム・ファタールというよりは思わせぶりな印象ばかりが先行する。ミステリー作品としてのルックは十分見応えがあるものの、ラストは欲張りすぎたかも。
映画的な文学というものがあるとしたら、これは文学的な映画だ。映画が表層だとしたら文学は内面であり、本作の映像文体は内面から組み立てられているように見える。ニコラス・ホルトは作家という厄介な、そして愛すべき生き物の醜さに、実に美しく寄り添っている。サリンジャーといえばその生涯の長きは隠遁生活であり、生前から半ば伝説的な存在となっていたが、その神秘性がまた彼の文学性を高めたともいえる。このような映画が作られたのも本人の没後だからこそできたことだろう。
ノワールのパロディを試みた壮大なミュージカルコントといった味わい。監督のマネッティ兄弟がファンだというジョン・ウーの過剰な作風を、意図的にネタ化したメタパロディのよう。正統なノワールなら悲劇であるところこそ喜劇的に料理し、コテコテのイタリアンさながらに歌い上げるおふざけにハマれるかは賭けだが、ラストは昨今流行りの伏線回収もの。看護師のファティマは足手まといなだけでイライラするノワールのヒロイン像をこれでもかのウザさで笑いに転化していて痛快だ。
フィンチャーが「ゴーン・ガール」のヒロインにロザムンド・パイクを起用した理由は彼女の不透明性だったという。これはかなり言い得て妙で、同作はパイクの代表作に違いないが、あれだけ強烈なキャラクターを演じた彼女が以降そのイメージにとらわれているかというとそうとも言えない。そんなパイクの得体の知れなさが、熱心なナチ信者かつ貴族である本作の役どころでは遺憾無く発揮されており、ハイドリヒを洗脳した張本人としての不気味な存在感はある意味ハイドリヒより大きい。