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1920.4.1‐1997.12.24中国・山東省青島生まれ。軍隊経験を経て戦後、46年に東宝第1期ニューフェイスに合格し、「銀嶺の果て」(47)で俳優デビュー。翌年に黒澤明監督作「酔いどれ天使」の主役に抜擢され、以降は「赤ひげ」(65)まで、「生きる」(52)を除くすべての黒澤映画に出演。ヴェネチア国際映画祭グランプリに輝いた黒澤監督の「羅生門」(50)によって国際スターの仲間入りをし、「グラン・プリ」(66)、「太平洋の地獄」(68)、「レッド・サン」(71)、「1941」(80)などの海外映画にも出演。“世界のミフネ”として活躍する。一方では62年に三船プロダクションを設立し、石原裕次郎と共に大ヒット作「黒部の太陽」(68)を生み出すなど、スター・プロダクションの名声を上げた。
黒澤明とのコンビで知られる日本を代表するスター。「醉いどれ天使」(48)から「赤ひげ」(65)まで16本、全30本ある黒澤作品の半分以上に出演した計算になる。東宝ニューフェイス(第1期)の面接試験では審査員の大半から不興を買ったものの、黒澤明の師・山本嘉次郎監督の強い推薦を受けて入社。都会的な東宝のカラーに収まらない野性味あふれる雰囲気と重量感ある芝居が魅力で、古風で気骨ある軍人や武士の役が良く似合った。その反面、素顔はシャイで実直な人物で、自ら自宅の前を掃除するほどスターらしからぬ飾り気のない性格だったという。黒澤以外では岡本喜八、稲垣浩、谷口千吉などの作品に多く出演したほか、「グラン・プリ」(66)など海外作品でも活躍。また、独立プロ“三船プロ”を立ち上げて映画製作にも乗り出した。
1911.1.13‐1973.10.7北海道札幌市生まれ。作家・有島武郎の長男。29年から新劇俳優として活躍し、42年に「母の地図」で映画デビュー。「安城家の舞踏会」(47)で没落貴族のニヒルな長男を演じて一躍注目を浴び、映画スターの地位を確立。黒澤明の「羅生門」(50)や「白痴」(51)、溝口健二の「武蔵野夫人」(51)や「雨月物語」(53)など日本映画を代表する巨匠の作品に出演したが、その最高峰は成瀬巳喜男監督の「浮雲」(55)で演じた、腐れ縁の女に引きずられて駄目になっていくインテリの中年男役だろう。この演技によってキネマ旬報ベスト・テン男優賞を受賞。その後も知的でニヒルな二枚目として個性を発揮し、映画や演劇で活躍した。
出演作が次々と海外で評価され、日本映画黄金期を支えた知的な演技派俳優。作家・有島武郎の長男で京都帝国大学入学(後に中退)という出自から滲み出る知的で洗練された雰囲気と、新劇で培った演技力を武器に多数の作品で活躍。端整な顔立ちに繊細な雰囲気を漂わせながらも、時にしたたかに時に冷淡な芝居で、善人から悪人まで幅広い役を演じ続けた。その演技に対する周囲の信頼は厚く、黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男など巨匠の作品に次々と出演。さらに、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞した「羅生門」(50)を始め、「雨月物語」(53)、「武士道残酷物語」(63)など出演作が次々と海外の映画祭で受賞し、黄金期の日本映画に欠かせない俳優の1人となった。
1931.8.29‐1969.7.17京都府京都市生まれ。誕生の翌年、関西の歌舞伎俳優・市川九団次の養子になり、46年に初舞台を踏む。51年、市川寿海の養子になって八世・市川雷蔵を襲名。54年、大映に入社して「花の白虎隊」で映画デビュー。翌55年には溝口健二監督の「新・平家物語」で平清盛を気魄たっぷりに演じ、大映を担うスターへと成長する。以降は全12本作られた「眠狂四郎」を始め、「忍びの者」、「若親分」、「陸軍中野学校」の各シリーズでヒットを飛ばし、市川崑監督の「炎上」(58)ではその演技を高く評価された。また三隅研次監督と組んだ「斬る」(62)、「剣」(64)、「剣鬼」(65)の“剣三部作”も様式美溢れる傑作として名高い。だが演技者として充実の時を迎えた69年、直腸ガンによって37歳の若さで急逝した。
デビューから15年、短くも華々しい俳優人生を駆け抜けた60年代大映の看板スター。1954年の「花の白虎隊」でともにデビューした勝新太郎が長い雌伏の時を過ごしたのに対して、雷蔵は早々に正統派の美男子スターとして活躍する。4年目に「炎上」(58)で各映画賞を総なめにしてからは、人気、実力を兼ね備えた映画スターとして、主演作が続々とシリーズ化。出演作の大半は時代劇ながら、若殿様から稀代の美男子・光源氏、虚無の剣士・眠狂四郎まで、歌舞伎で鍛えた演技力を武器に多彩な役を演じ分ける。特に、その清々しさや凛々しさは悲劇的な役を演じることで際立った。その一方で、「ぼんち」(60)、「陸軍中野学校」シリーズ(66~68)など、現代劇も好評を博し、勝新太郎との二枚看板で60年代の大映を支えた。
1931.11.29‐1997.6.21東京生まれ。父は長唄師匠の杵屋勝東治で、兄は若山富三郎。誘いを受けて大映に入社し、「花の白虎隊」(54)で市川雷蔵と共にデビューした。だが白塗りの二枚目時代劇俳優として個性を発揮できないまま、数年を過ごす。悪逆非道の男に扮した「不知火検校」(60)でその人間臭い魅力が開花し、「座頭市」シリーズによって人気爆発。「悪名」、「兵隊やくざ」の各シリーズも好評を博し、大映を担うスターに急成長した。67年には勝プロダクションを設立し、「顔役」(71)で監督業にも進出。その後は79年の黒澤明監督作「影武者」の主役降板、90年の麻薬密輸入事件での逮捕など世間を騒がせたが、演技に懸けたその人生と作品は、今も多くの映画人に影響を与えている。
個性的なアンチヒーローを、人間味豊かに演じて大映を支えたスター。「花の白虎隊」(54)で市川雷蔵と一緒にデビューしたものの、二枚目路線で売り出した当初はこれといったヒット作も生まれず苦労が続く。1960年代に入ると、義理に厚いやくざを演じた「悪名」、盲目だが居合切りの達人・座頭市、はみ出し者の兵隊を演じた「兵隊やくざ」など、アンチヒーローに活路を見出し、看板スターに躍り出た。映画に対する情熱は人一倍で、後年は独立プロ“勝プロ”を設立し、テレビも含めて「座頭市」シリーズなどで監督業にも進出。天才的な才能を発揮して優れた作品を生み出す一方で、予算やスケジュールを度外視した創作に対する姿勢は、活躍の場を狭める結果ともなった。
1931.2.16‐2014.11.10福岡県中間市生まれ。明治大学卒業後、東映専務のマキノ光雄にスカウトされ、55年に東映入社。「電光空手打ち」(56)で映画デビューし、現代劇の青春スターとして売り出した。64年、主演作「日本侠客伝」シリーズで人気が爆発。「昭和残侠伝」シリーズと併せ、任侠映画スターとして一時代を築き、一方で現代アクション「網走番外地」シリーズでも好評を得る。76年に東映を離れてからは、「君よ憤怒の河を渡れ」、「八甲田山」(77)、「野性の証明」(78)などの大作に主演し、また山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」(77)、降旗康男監督と組んだ「駅/STATION」(81)では多くの映画賞の主演賞に輝いた。降旗監督とは以後もコンビで秀作を連発。生涯205本の映画に出演し、そのほとんどが主演作という不世出のスターであった。
任侠映画のスターから国民的俳優へ。1956年のデビュー以来、様々な作品を経て63年の「人生劇場 飛車角」をきっかけに任侠映画のスターとして活躍。現代アクションの「網走番外地」(65)と並行して主演作が次々とシリーズ化され、“健さん”の愛称で親しまれる。時折しも、学生運動華やかなりし頃で、渦中の世代の熱狂的な支持を受けた。やくざ映画が“実録路線”へ転向した70年代中盤に東映を退社してフリーに。生涯の出演作205本のうち、ここまでで180本以上。以後は大作を中心に主演する国民的俳優としての階段を上り始め、山田洋次監督や降旗康男監督と組んだ諸作を通じて、寡黙でストイックな男のイメージが定着していった。なお、純和風の印象が強いものの、「ブラック・レイン」(89)ほか、海外作品にも出演経験がある。
1940.2.29‐2011.7.19東京生まれ。63年、俳優座養成所に15期生として入所。68年、「復讐の歌が聞こえる」で映画デビュー、翌年の「反逆のメロディー」で映画俳優として開花、その後は無頼なアウトロー役で人気を集めた。黒木和雄監督の「竜馬暗殺」(74)で斬新な坂本龍馬像を造型し、以降黒木監督とは多くの映画で名コンビを組む。他にも「ツィゴイネルワイゼン」(80)の鈴木清順、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(85)の森﨑東、「どついたるねん」(89)の阪本順治、「われに撃つ用意あり」(90)の若松孝二など、ある種の共犯関係によって彼と代表作を生み出した監督は多い。自ら企画した遺作「大鹿村騒動記」(11)まで映画を“遊び”と呼び、俳優として本気で遊びつくした71年の生涯だった。
反骨精神あふれるアウトロー的なキャラクターを持ち味に、1970年代以降の日本映画低迷期に躍動した。本人が“実質的なデビュー作”と語る「反逆のメロディー」(70)のオファーを受けた際は、出演する気がなかったため、やくざ映画にも関わらず上下ジーンズという格好で監督に会いに行く。ところが、これが逆に気に入られて起用が決定し、やくざ映画の常識を打ち破る作品を作り上げた。以来、組織や権力からはみ出した役を次々と演じてイメージを確立。時代劇にも出演したが、「無宿人御子神の丈吉」シリーズ(72~73)や「浪人街」(90)など、ここでも渡世人や浪人など、体制の外側の人間にこだわり続けた。アウトローの宿命として悲壮感漂う場面も少なくなかったが、どんな時でもどこか颯爽とした格好よさと色気が滲み出ていた。
1950.9.21‐1989.11.6山口県下関市生まれ。高校卒業後に演技の勉強を始め、72年に文学座付属演劇研究所へ12期生として入所。翌年、TV『太陽にほえろ!』のジーパン刑事役に抜擢され、野性的な風貌と豪快なアクションで人気を得る。同年には「狼の紋章」で映画デビューも果たした。村川透監督と組んだ「遊戯」シリーズや「蘇える金狼」(79)、「野獣死すべし」(80)で70年代を代表するアクション・スターへと成長。83年には森田芳光監督の「家族ゲーム」でハードボイルドな家庭教師に扮し、その演技で各映画賞主演賞を総なめにした。以降は演技派としての色彩を強める一方で、「ブラック・レイン」(89)でハリウッド映画にも進出。だが膀胱ガンにより、39歳の若さで逝去した。息子の龍平、翔太も俳優。
長身と長い手足が醸し出す独特の佇まいと、静と動の二面性ある演技で強烈な印象を残した80年代のスター。頭角を現したのは、村川透監督と組んだハードボイルド映画。「最も危険な遊戯」(78)で演じた一匹狼の殺し屋、「野獣死すべし」(80)の殺人鬼など、狂気を秘めた人物を唯一無二の演技で表現。後に文芸作品にも進出し、アクションだけではない演技力を広く認められる。自分にも他人にも高いハードルを課すことで知られ、周囲との衝突も少なくなかったが、スタッフや共演者を自宅に招く親分肌の一面も持ち合わせていた。ハリウッド映画「ブラック・レイン」(89)への出演で更なる飛躍を期待された直後に亡くなるが、その遺伝子は俳優として活躍する2人の息子、龍平と翔太に着実に受け継がれている。
1956.1.1‐長崎県諫早市生まれ。78年、無名塾に入塾し、同年初舞台を踏む。83年、NHK大河ドラマ『徳川家康』の織田信長役で注目を浴びる。映画には「闇の狩人」(79)に初出演し、伊丹十三監督の「タンポポ」(85)からは映画出演にも力を入れたが、80年代はTVでの人気が目立った。95年、「KAMIKAZE TAXI」のペルーから来たタクシー運転手役が絶賛され、翌年の「Shall weダンス?」で各映画賞の主演賞を総なめにした。この96年以降、日本アカデミー賞で7年連続優秀主演男優賞を得て、トップスターの地位を確立。今村昌平の「うなぎ」(97)、黒沢清の「CURE」(97)、青山真治の「EUREKA」(01)など、日本映画史に残る名編で圧倒的な存在感を披露した。
仲代達矢門下から現れた平成の日本映画界を支える演技派俳優。仲代達矢が主宰する俳優養成所“無名塾”で鍛えた演技力を武器に頭角を現す。若い頃から重厚な芝居が持ち味で、「オーロラの下で」(90)の猟師やテレビ時代劇での織田信長、宮本武蔵といった力感溢れる人物を得意としてきた。その演技力を買われて原田眞人監督や黒沢清監督の作品で活躍する一方、「Shall We ダンス?」(96)でコミカルな芝居に開眼するなど、次第に演技の幅を広げて行く。50代に入ると演技にますます磨きがかかり、「最後の忠臣蔵」(10)や「蜩の記」(13)では枯れた味わいも披露。上の世代が次々と第一線を退き、同世代の渡辺謙が活動の中心を海外に移す状況の下、スクリーン映えのする骨太な演技で国内の映画界を支え続けている。
1923.1.20‐2013.4.14群馬県太田市生まれ。中学時代から職業を転々とし、50年末に松竹大船撮影所の研究生になる。木下惠介監督の「善魔」(51)の主役として映画デビュー。将来を嘱望されたが、東宝「戦国無頼」(52)に出演したことが問題となり、松竹を解雇される。その後は日活で「警察日記」(55)や「ビルマの竪琴」(56)、東映では「大いなる旅路」(59)や「飢餓海峡」(64)など、そのリアリティ溢れる演技で存在感を示し、今村昌平監督の「神々の深い欲望」(68)など、独立プロの作品にも積極的に参加。86年に自ら監督した「親鸞・白い道」は、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。88年からは西田敏行主演のコメディ「釣りバカ日誌」シリーズの“スーさん”役で新境地を開き、09年まで全22作に出演した。
体当たりの演技で、善悪を併せ持つ人間の本質をスクリーンに焼き付けた稀代の名優。様々な職業を転々とした後、20代後半で俳優になり、結婚と離婚を繰り返した波乱万丈な経歴ゆえか、各社の専属俳優にはない強烈な存在感を発揮。その演技に対する本気度を伝える逸話は、多々残されている。元軍人の老境を演じるために実際に歯を抜いた「異母兄弟」(57)、鉱毒の被害を役人に訴える場面で土を食べた「襤褸の旗」(74)等々……。数々の熱演により、映画会社が自社俳優の他社作品出演を禁じた“五社協定”をものともせずに各社を渡り歩き、名優としての地位を確立。晩年には「釣りバカ日誌」シリーズで好々爺然とした佇まいを見せたが、それも元々は“喜劇に挑戦してみよう”という演技に対する意欲が招いた結果だった。
1905.3.12‐1982.2.11兵庫県朝来郡生野町生まれ。20年代に新劇俳優として活動を始め、様々な劇団を転々。34年に新興キネマ京都撮影所に入り、翌年に伊丹万作監督の「忠次売出す」で映画デビュー。伊丹監督の「赤西蛎太」(36)、溝口健二監督の「浪華悲歌」(36)などでの好演を経て、43年に黒澤明監督の処女作「姿三四郎」に村井半助役で出演。以降、「影武者」(80)まで21本の黒澤映画に出演。中でもガンを宣告された、実直な中年男を演じた主演作「生きる」(52)の名演は忘れ難い。他にもプロ野球の監督を味わい深く演じた「男ありて」(55)、「ゴジラ」(54)の山根博士など、役の大小に関わらず安定感のある貫禄溢れる彼の演技は、作品の厚みになって日本映画を支えた。
黒澤明を支えたいぶし銀の名優。黒澤の監督デビュー作「姿三四郎」(43)以来、全30作品(うち、志村没後が4作品)のうち21作品に出演。「酔いどれ天使」(48)の飲んだくれ医師から「七人の侍」(54)の侍たちのリーダー、勘兵衛まで、あらゆる人物を厚みのある芝居で存在感たっぷりに演じた。志村の死に際し、黒澤は“代わりのきかない貴重な俳優だった”との言葉を残している。また、16本に出演して共に黒澤を支えた三船敏郎とは公私に渡る付き合いがあり、三船は志村夫人を“おばちゃん”と呼ぶなど、子どものない志村夫妻は三船を息子のように可愛がったという。黒澤以外の出演作も多数あり、「ゴジラ」(54)を始めとした東宝特撮映画や「男はつらいよ」シリーズで前田吟が演じた博の父親役などでも強い印象を残した。
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