畑中孝二は夢をみた。少年時代の夢であった。川の対岸を杉本まちえが歩いている。彼は夢中でまちえを呼んだ。しかし、まちえにはついに聞こえなかった。二人を遮っている川には橋がなかったのである……。孝二はすでに十八歳になっていた。高等科を優等で卒業したもののすでに数回職を変え、結局故郷の小森でいまは靴職人となっていた。被差別部落出身者には就職の自由はなかった。永井藤作の娘お夏は、大阪に身売りしていたが、村の若者清一と世をはかなんでの心中自殺をとげた。妹しげみはお夏の前借の肩代りに、食いぶちを減らすために自ら身売りをのぞんだ。ここにも同和問題の悲劇があった。孝二とまちえは、ある日柏木先生のとりなしで卒業後初めて再会した。まちえは小森で教師となっていた。二人は長い差別の歴史ときびしい現実に怒りを増すのみだった。また、同じ靴職人となっている孝二の同級生たちは、「部落改善運動」を唱える秀賢和尚に結婚差別の現状をぶちまけた。一方、大阪の米問屋に奉公していた兄、誠太郎は主人徳三郎に好意をよせられていたが、娘あさ子が彼との結婚を切望していることを知るや、その態度は急変し、ついに誠太郎にひまをだし、あさ子の髪を切り、二人の仲をひきさいてしまった。ロシアへの内政干渉、シベリア出兵と日本は軍国主義への道をひたすら歩んでいた。諸物価は高騰し、米価の高騰はまさに天井知らずの様相を呈していた。米問屋は政府と結託し買占めを始め、さらに村の者に売る米はない、とつっぱねた。そして「米よこせ」運動が、ここ小森村にも波及した。その先頭に藤作がいた。だが、司直の手は藤作にのびた。秀昭、孝二たちが藤作の奪還にむかった日、右翼の国忠会が村に暴れこんできた。歯ぎしりして、口惜しがる秀昭たちの前に、秀昭を逮捕するために刑事が姿をみせた。だが、村の人々は人垣を固くして刑事をよせつけなかった。大正十一年、秀賢の提唱する「部落改善運動」は融和団体、平等会へ合流していった。だが、その創立大会に参加していた被差別部落の多くの人々は平等会の本質を見破っていた。「部落民は自らの手で差別と貧困を追放せよ」とのビラがまかれた時、会場は怒号と弥次馬で大きく紛糾した。秀昭たちを補えようとした巡査も群衆に阻止された。孝二と秀昭は抱き合って喜び合った。「水平社万才」の声が会場を圧した。