農政省官吏坂田昌義は、ある日、異常に興奮し泣き叫ぶ女性からの電話を受けた。それは子供が小児麻痺にかかったことを主人にうったえる間違いの電話だった。それから数日、坂田はテレビで小児麻痺患者の惨状をとらえたニュースを見て、あのときの悲痛な電話の声が再び生々しく呼び返された。それからというもの、小児麻痺撲滅が坂田の念願となった。そんなある日、坂田の契約恋人でバーのホステス由美から、北海道で大量発生した小児麻痺患者の惨状を取材したアジアTVの報導員熊谷を紹介された。坂田は熊谷から小児麻痺の予防薬としてソ連のセービン博士がつくった生ワクチンがあることを聞き、早々ポリオの権威平岡教授のところへ、その安全性を確めにいった。しかし平岡教授にも、その安全性を絶対的に裏づける力はなかった。坂田は必死に小児麻痺に関するデーターを集めた。そうするうち、坂田は小児麻痺予防には生ワクチン以外にないと確信した。が、これを使用するには、その安全性を保障するための人体実験が必要だ。坂田は平岡教授や熊谷に協力をたのみ、人体実験に必要なデーター作成にのり出した。折も折小児麻痺は過速度的に蔓延し、世論が高まり、生体実験が行われることになった。しかし小児麻痺の義弟を持つ女医根本倫子は、安全性の保障できない薬をのませることはできないと拒絶した。が、「九十九人を助けるために、一人の犠牲はしかたがない--」という坂田の説得の前に倫子もおれた。人体実験は成功した。厚生大臣は大量の生ワクチンを輸入して、生ワク投与にふみきった。が、そのころ坂田は左遷され、由美とも別れ、一人東京を去っていくのだった。