昭和十八年、極寒の地ソ満国境に近い孫呉の丘に、関東軍四万の兵舎があった。そんなところに、浪曲師の門を追われ、やくざの用心棒をやっていた大宮貴三郎が他の新兵といっしょに入隊してきた。そして、この貴三郎の指導係を命じられたのが、名門生れのインテリで幹候試験をわざとすべった三年兵・有田であった。星一つ違えば天地ほどの隔りをもつ軍隊で、貴三郎の倣慢な態度は上等兵達の敵意を買った。なかでも大学の拳闘選手だった黒金伍長は砲兵隊の権威をかさにきて貴三郎を痛めつけた。腹のおさまらない貴三郎は、数日後単身、再び黒金と相対した。しかし相手は多勢、さすがの貴三郎も血まみれになった。だが、そこへ有田が駆けつけた。古兵の出現に事態は逆転し、黒金は指の骨を全部折られたあげく泣き寝入りとなった。そんなうちに貴三郎と有田の間に力強い男の絆が生れた。だが執念深い黒金は、全師団合同大演習の夜、再度貴三郎を襲い、歩兵隊と砲兵隊の喧嘩にまで発展してしまった。やがて事件が上官にも知れ、貴三郎は外出禁足令をくらった。だがその夜貴三郎は兵舎をぬけ出し、将校専用の芸者屋で音丸と遊び戯れていた。身柄を預かる有田は自ら制裁することを誓って、貴三郎を不問に附した。やがてここにも夏が過ぎ秋も過ぎようとしていた。戦況は切迫し、有田の満期除隊の夢も潰え、貴三郎のところには、南方へ出動命令が下された。だが、今は有田と離れがたい心情にかられた貴三郎は、故意に無断外出の禁を犯し、営倉入りした。やがて大隊全員に転進命令が下った。有田に恩返しをするのは、この時以外に無いと、貴三郎は有田をともなって、脱走を計った。部隊を乗せた列車は切り離され、有田と貴三郎の乗った機関車は荒野をまっしぐらにばく進していった。