東京市品川区の生まれ。本名・井田綾子。父は海軍軍人。府立第八高等女学校ではスポーツと宝塚歌劇に熱中する少女だった。1948 年4月、松竹歌劇団の養成所・松竹少女歌劇学校の試験に合格。11 月、女学校を中退して入学する(4期生)。芸名は宝塚のスター・淡島千景にちなんだ。初舞台は49年3月、浅草・国際劇場の第18回『春のおどり』。稽古に打ち込んでいた同年夏、映画の踊り子役に指名される。「映画は嫌い」と拒むが、『夏のおどり』にも2日間だけ出られることを条件に渋々と承諾。それが黒澤明監督の「野良犬」49 で、桂木洋子の急遽の代役だった。刑事に見せる反抗心剥き出しの姿は半ば当時の心境そのままであり(現場では三船敏郎らがダンスを踊って機嫌をとった逸話が残る)、自身の意志とは裏腹に鮮烈な女優デビューを果たすことになる。たちまち映画出演の依頼が殺到、数本には出たものの歌劇優先の姿勢は頑として変えず、養成期間を経て松竹歌劇団入団後は妖艶な魅力のダンスで頭角を現す。52 年、準幹部に昇格。深草笙子、草笛光子と組んだトリオ“ スリー・パールス” は同団のセクシー路線を牽引する。さらに踊りを究めるため日劇ダンシングチーム入りを考えるがライバル団体への移籍には障害があり、紆余曲折の結果、松竹大船の専属契約女優となる。専属第1作は53 年の小林正樹監督「まごころ」。同年には木下惠介監督「日本の悲劇」、大庭秀雄監督「君の名は」第1・2部にも出演するが存在感を出せず。奔放な個性が松竹のカラーと合わず、スター女優の引き立て役が続く。話題を呼んだのは日本ロケしたパラマウント作品「トコリの橋」54(55公開)でのダンサー役のほうだった。55 年、小品メロドラマ「この世の花」で初主演。これが島倉千代子の主題歌人気に乗る形でヒット、直ちに続編が作られる。しかし初めて他社出演した東京映画の久松静児監督「渡り鳥いつ帰る」55 の娼婦役で手応えを掴んだこと、当時日本で活動していたフィリピン人歌手ビンボー・ダナオと結ばれた私生活の充実もあり、56 年、松竹との契約満了を機にフリーランスに。同年10 月、東京映画と契約。同系の東宝、宝塚映画や他社作品にも次々と出演する。57 年は15 本に出演し、「三十六人の乗客」「下町」など好演を連発。特に稲垣浩監督「太夫(こったい)さんより・女体は哀しく」の廓女役の熱演はデビュー以来の注目と評価を集めるに十分で、ブルーリボン助演女優賞を受賞。20代半ばにして、酸いも甘いも噛み分けた百戦錬磨の味を出せる女優の定評を確立する。58 年にはその柄を活かして「駅前」「社長」シリーズの初期にあたる「駅前旅館」「続社長三代記」に出演。以後、東宝のドル箱シリーズとなった両路線にお色気担当の準レギュラーとして華を添える。一方では成瀬巳喜男監督に重用され、「女が階段を上る時」60、「娘・妻・母」60、「女の座」62 などに出演。多くは高峰秀子と対立する役柄だったが、強烈な自我でヒロインを挑発する姿は松竹時代の引き立て役とは内実が違っていた。その存在感を買われて61 年にスタートしたNHK のテレビドラマ『若い季節』に女社長役で出演。日本テレビ『男嫌い』63 も「カワイ子ちゃん」「…かもね」などの流行語を生むヒット作となった。65 年、東映に招かれ山下耕作監督「花と竜」で中村錦之助(のち萬屋錦之介)と共演。これが縁となり、二子をもうけていたダナオとの内縁の結婚生活解消後、66 年に錦之介と正式に結婚。「父子草」67まで出演した映画は130 本以上。その後は長く引退状態にあったが、錦之介との離婚を機に20 年ぶりに女優業を再開。復帰第1作は山田洋次監督「男はつらいよ・知床慕情」87 のゲスト出演。古巣松竹の作品で三船敏郎との久し振りの顔合わせと話題が多く、寅次郎に仲立ちされる大人同士の恋を爽やかに演じて最高の形のカムバックを見せる。以降は金子修介監督「香港パラダイス」90、澤井信一郎監督「日本一短い『母』への手紙」95、成島出監督「油断大敵」03 などの映画はもちろん、テレビドラマ、舞台にも数多く出演。近年の代表作は02 年の渡邊孝好監督「ぷりてぃ・ウーマン」。平凡な婦人会の女性達が芝居の公演を一から立ち上げるコメディドラマで、気風の良いリーダー役を活き活きと演じた。舞台ではブロードウェイのブラックコメディ『毒薬と老嬢』で長年慕ってきた淡島千景と共演、これも好評を博す。近年は『ドラゴンクエスト』シリーズの初期からの大ファンと明かして“話せるおばあちゃん”と話題を呼び、ゲーム世代からの人気も得ている。10 年6月、錦之介との間に生まれた四男が急死(三男も90年事故死)。深い打撃を受けるが、すでに決まっていた石川さゆり明治座座長公演に出演、変わらぬ芯の強さを見せた。2014年1月11日、食道癌のため死去。