昭和十八年五月二十九日北太平洋アリューシャン列島のアッツ島玉砕に続き、それより一二〇浬離れた孤島キスカ玉砕は時間の問題とされていた。大本営海軍部の司令長官川島中将は、五千二百の守備隊見殺し説の強い中で、キスカを救えとくい下り、この作戦に大村海軍少将を指命した。この日からキスカ島無血撤退の準備は進められた。時しもキスカ島は、米太平洋艦隊の厳重な封鎖にあい、食料弾薬の欠乏の前に、守備隊の運命は風前の灯であった。撤退作戦は、十数隻の軽巡洋艦及び、駆逐艦を使って、北太平洋特有の濃霧に隠れ、隠密裡にキスカ島に到着、一挙に守備隊収容撤退を企る手しかなかった。一切の運命を霧に託すこの作戦は、極めて冒険であり、救援隊全滅の公算大であった。国友大佐を潜水艦でキスカ島に送りこんだ大村艦隊は、七月七日、キスカ島突入の態勢に入ったが、霧が晴れたためやむなく反転帰投を余儀なくされた。再び濃霧を見込んで七月二十二日、キスカ島へ向った。だが濃霧は味方に不利に動いた。旗艦阿武隈の三重衝突で、艦船に優を負ったのだ。だが敵をふりきった阿武隈は一路キスカに向った。戦況は悪化し、救援隊のキスカ島入港時間は判らず、守備隊は、毎日日没後約二時間の間、海岸に集結し待機するという方法をとった。七月二十九日、救援隊は、常識に反して、岩礁の多い難所を廻り、島影を利用して、ネスカ湾口の探照灯に導かれ米軍の封鎖網を見事くぐりぬけた。かくして旗艦阿武隈、木曽は、米軍の目をかくれて、無血救援を完成したのだった。その後、米軍は熾烈な砲弾戦を続けたのち、無人と化したキスカ島を確認したのであった。