東京に近い地方都市。この街で一番の旧家、富田屋栄竜堂薬舗は、今や時代の波に押されひどい寂れようだった。当主の信二は二、三の事業に手を出したが何れも失敗した。妻の喜代子は店の横の空地に喫茶店を建てることを計画、昔気質の姑を説得、自分は見習にキッチン“はるな”に通うことになった。だが用意した資金から三十万円を信二の妹澄代の嫁入支度にとられた。不足分は親友の弓子の兄健吉が銀行に勤めているところから頼んで都合して貰いそれが縁で、健吉としばしば逢う身となった。その頃、東京に出ていた長男の善一が会社を止め妻子を伴い帰って来た。しかも商売を始めるから三十万円貸して欲しいという。喜代子が断ってくれという懇願にも拘らず、人の良い信二は逃口上を云って家を飛出し、その夜は芸者と温泉へ泊り帰らなかった。母と善一に責められ遂に金を出した喜代子は、再び健吉の許を訪れた。健吉は心良く融通してくれたが、二人の接触する度合は益々しげくなり狭い街だけに噂は信二の耳にも入るようになった。そして信吉の温泉行を喜代子が人伝てに知るに及んで、夫婦の間には深い溝ができた。だが、ある夜信二から気弱に健吉との関係を訊かれた喜代子は、愕然として弓子を訪れ、健吉との事で夫に誤解されたことを打明けた。思いつめた喜代子に、しかし弓子は笑って、それを打消し喜代子をほっとさせた。弓子の家から帰る途中、喜代子は、本通りの薬屋の新装売出しを見ている信二を見つけた。「うちも秋までには開店したいわね」と静かに寄った喜代子の意外な態度に、一瞬信二はドギマギした。さりげなく「今度はしっかりやりましょうね」という喜代子に信二も笑顔で「うん」と答えた。足どりも軽く肩を並べて行く二人に、春の陽が流れていた。