【一貫して反戦を訴え続けた生涯】福島県に生まれる。青少年期、絵画や人道主義文学に惹かれ上京、文化学院美術科に学ぶ。同大学を1928年に中退してソ連に留学。レニングラード映画専門学校で学び、肖像画や革命戦争の歴史画、そしてソ連映画に感銘を受けた。留学3年目、肺結核を発病し帰国。33年、回復し、再度ソ連に渡ろうとするが、友人に勧められてP.C.Lに入社する。文芸課に属し、本や雑誌を読んで企画用のシノプシスを書いた。やがて官庁や企業のPR映画を担当するようになり、36年、海軍省のPR映画「怒濤を蹴って」で監督デビュー。続いて「上海」(37)、「戦ふ兵隊」(39)を撮るが、後者は厭戦気分が濃厚であるということで上映禁止となった。長野県観光課の協力で、農民生活の惨苦を描いた「伊那節」(40)、「小林一茶」(41)を発表。41年、治安維持法によって検挙され1年間拘束される。その後、身を財団法人日本映画社に寄せ、45年、敗戦を迎えた。【劇映画からドキュメンタリーへ】戦後すぐに撮った、天皇を着せ替え人形にして風刺しながら戦争責任を追及した「日本の悲劇」(46)は、アメリカ占領軍に没収される。さらに、東宝に復活した彼は劇映画への意欲を示し、夫の戦死の報を聞いて再婚した妻の下へ、夫が復員してきたことから起こった二重結婚の悲劇を、ドラマと実写フィルムを組み合わせて構成した反戦映画「戦争と平和」(山本薩夫共同監督、47)、印刷工の女工が姑に虐待される因習的な家族制度に異議を唱えた「女の一生」(49)を撮る。当時の東宝争議では日米協力の大弾圧に強く抗議し、活躍する。争議が妥結した後、東宝を離れ、フリーとして「無頼漢長兵衛」(49)、「母なれば女なれば」(52)、「女ひとり大地を行く」(53)などを撮る。54年、日本ドキュメント・フィルム社を設立、再び記録映画に挑む。「生きていてよかった」(56)、「世界は恐怖する」(57)などの核兵器反対映画、「流血の記録・砂川」(56)などの米軍基地反対闘争の記録を撮り上げた。「荒海に生きる」(58)、「日本の建築」(59)、「人間みな兄弟・部落差別の記録」(60)などを撮った後、映画界を離れた。80年代に入って、わが国の急速な近代化、高度経済成長による自然崩壊などの現状にいたたまれず、再起する。記録映画「生物みなトモダチ」の大作を企画、87年、その第1篇「トリ・ムシ・サカナの子守唄」を完成させ、その直後、不帰の客となったのである。亀井文夫は戦前・戦後の日本の記録映画の先達であり、進歩的社会派の立場を一貫した作家である。傑出した演出力と、その独自の作品は、日本映画史にとっても不朽の位置を占めるだろう。